2008年10月30日木曜日

アルゼンチンでよみがえるシケイロスの壁画(その2)


Siqueiros "Ejercicio Plástico" 作品の写真は下記のサイトより引用


投稿 伊高浩昭

 1936年7月、スペイン内戦が勃発する。シケイロスはスターリンの呼び掛けに応じたPCMの意を受けて37年から38年までスペインの戦線で共和派人民戦線の中佐として戦う。レポーターとして同行したのは、3番目の妻アンヘリカだった。このころシケイロスはメキシコの友人に次のような手紙を書いている。 
 「絵筆からはるか遠く、銃に極めて近い所に今、私は居ます。戦いは現代の造形に似て、機械的、物理的、化学的、幾何学的であり、律動で総合です。戦いは造形のように、人間性のなかの積極的、消極的なすべての物事を一気に表現します。戦のなかで、造形芸術のなかで、私は陳腐な物事に対して闘いつづけます」。シケイロスは私に、「人生最大の出来事はスペイン内戦への参戦だった」と語っている。 帰国したシケイロスに、スターリンからの新たな命令が届く。1937年からメキシコ市で亡命生活を送っていた宿敵トロツキーを殺害せよという命令だった。シケイロスは1940年5月、仲間たちとともに武装してトロツキーの砦のような館を急襲するが、殺害する意思はなく、トロツキーは無事だった。怒ったスターリンは刺客ラモン・メルカデルを送り込む。刺客はその年8月、トロツキーの脳天をピッケルでたたき割って暗殺に成功する。ちなみに、トロツキーが一時、フリーダ・カーロと恋愛関係にあったのは周知の事実だ。彼女は、彫刻家イサム・ノグチとも関係したとされている。女性関係が絶えない夫ディエゴへの面当てだったという。 
 〈トロツキー暗殺未遂事件の主犯〉として逮捕されたシケイロスは、メキシコ市駐在のチリ領事だった詩人パブロ・ネルーダ(1904―73)の尽力で1941年、妻アンヘリカ、娘アドゥリアーナとともにチリ南部のチジャンに落ち着く。この計らいの背後には、メキシコのラサロ・カルデナス大統領の配慮があり、同大統領はシケイロスの滞在に合わせるように、チジャンに壁画学校を建てて贈った。画伯は42年、この学校で「侵略者への死」(ムエルテ・アル・インバソール)という壁画を描く。シケイロスの波乱に富んだ人生は、このような経過をたどる。

 「造形の実習」は、1941年のボターナの自動車事故死を経て48年、軍人政治家アルバロ・アルソガライに邸宅ごと買われてしまう。その夫人は〈猥褻な絵柄〉が気に入らず、壁画に傷を付けた。1950年、邸宅と壁画は売られて別の持ち主の所有となるが、新しい所有者は壁画をばらばらにして地下から取り外し、コンテナ5個にしまい込んでしまった。美術愛好家エクトル・メンディサバルが1989年に買い取ろうとしたが、資金が途絶えて実現せず、1993年からは所有権争いが続くなかで、壁画はコンテナごと放置されていた。 
 2007年12月、亜国大統領に就任したクリスティーナ・フェルナンデスは、その年半ばメキシコを訪れた際、メキシコの壁画修復技術者らから、「造形の実習」を放置すれば劣化がさらに進み崩れてしまうと伝えられ、壁画の救済を要請した。彼女は08年、この壁画を接収する法律を制定し、10月21日、国有財産となった壁画はコンテナに入ったまま政庁裏に運ばれた。コロン広場の地下には往時の税関の建物が残っており、壁画はメキシコ人専門家の協力を得て修復されてから、そこに取りつけられる。ことし11月下旬に亜国を訪問するメキシコのフェリーペ・カルデロン大統領は、シケイロスの作品と出合うことになる。 
 数奇な運命をたどった「造形の実習」だが、一般公開されるのは2010年になるという。私にとっても、ブエノスアイレスに行く楽しみが一つ増えた。