2011年3月30日水曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(14)

PBオセアニック号は3月28日正午、紅海からアデン湾に抜ける幅30kmのバブルマンデブ海峡を通過、夕刻、タンカーなどさまざまな船籍の8隻とともに船団を組み、船団は前後を海上自衛隊の護衛艦(駆逐艦)に挟まれて進む。今、イエメン沖のアデン湾をインド洋本洋に向けて進んでいる。わが船は船団の最後尾についたが、海賊に航行中であることを悟られないため明かりを消すか、船外に明かりがもれないようにして航行している。明かりがなくなった上階のデッキの上空は、満天星で埋まり、北の空に北斗七星、北極星、南にオリオン座と南十字星が輝いている。


一昨年、自衛艦に護衛され始めたとき、航行する船内では護衛されることの是非をめぐって激論が交わされた。いまでは「やむを得ない措置」として、議論されなくなっている。万が一、750人もの日本人と船長以下250人の乗組員が海賊の人質になったとしたら、身代金の額は天文学的に膨らみ、ただでさえ大地震・原発大事故で大混乱に陥っている日本にさらなる打撃を加えることになる、との暗黙の認識が日本人乗客の間にある。船団航海は、あと2日間続く。

2011年3月28日   イエメンの町の灯火が見えるアデン湾にて

伊高浩昭

2011年3月28日月曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(13)

サウディアラビア紅海沿岸のジッダに3月26日寄港し、一日上陸した。査証は公用・外交、商用、巡礼用が普通で、「観光」はない。だが同国政府の判断で、PB乗客約700人の一日上陸が認められた。しかし入管では、通過に2時間もかかった。米国警察当局との明らかな連携で、一人一人が両親指および、右手の親指以外の4指、同じく左手の4指の指紋、眼鏡外した顔写真をとられたからだ。「国際テロリスト」や「サウディ国内不安定化の扇動者」らの入国を阻止するためらしい。中東・北アフリカのイスラム諸国の歴史的変動期にあって、厳戒態勢をとっている。


モスレムの巡礼の地メッカは、ジッダの東方70kmにある。車で高速道路を30分、電車で45分の近さだ。メッカに行けるのは通常モスレムだけであり、異教徒は特別の許可がないと訪れることはできない。年間400万人が諸外国から玄関口ジッダ空港に降り立ち、メッカ、そしてメディナを訪れるという。ジッダ新空港は敷地の長さが20kmもあると聞いた。

ジッダの旧市街を歩いた。寺院のミナレットの上部の拡声器から、日に5回の礼拝時の放送がなされる。「アッラーは神たちの中の最高の神だ。。。」。浪花節をけだるくしたような音色は、フラメンコの曲の底流にある。イスラム支配したのアンダルシーアで生まれたのが、フラメンコ音楽だ。

ジッダ新市街は、世界一の産油国の主要都市らしく、石油マネー威力を存分に発揮して、現代的かつ成金的だ。女性の姿は極めて少なく、就労年齢女性の30%程度しか働いていないとのこと。顔と手しか露出させてはならない、という厳しい習慣で、女性は身体を黒服と黒頭巾で覆っている。「戒律の厳しさ」は、目に見える女性の服装で象徴される。一方、男は服装は自由だ。戒律の厳しさは、サウディがイアスラム教発祥の地であるという正当な理由のほか、サウディ王家を維持するための方便という側面は無視できないだろう。

郊外で、ベドゥウィン(砂漠の遊牧民)の羊肉料理、生コーヒー、ナム、なつめ菓子などを味わい、彼らの踊りを観た。一瘤ラクダが沢山現れて、飼料の乾燥草を食べた。いまでは、過酷な砂漠での生活を切り上げて都市で暮らす者が多いという。旧市街のスーク(市場)周辺には物貰いや小銭をせびる老人、中年女性がおり、少年少女のチュウインガム売りもいた。社会の底辺労働は移民労働者がこなしている。経済と人種の格差が目に付き、潤沢な原油の生む富が社会全体にあまねくいきわたっていない状況を示していた。

2011年3月26日

ジッダで 伊高浩昭

波路はるかに~伊高先生の船上便り(12)

PBオセアニック号は、3月24日未明、ポートサイドからスエズ運河に入った。明け方、日本が資金を出して建設した、全長5キロの巨大な「日エ友好橋」の下を通過した。運河は(明治維新翌年の)1869年に開通したが、建設技術は、日本が江戸末期だったころの欧州とエジプトのそれだった。東方の紅海の出口ポートスエズまで、右側がエジプト本土(アフリカ大陸)、左側が同国シナイ半島(アジア入り口)で、半島は一面の砂漠だ。半島の彼方にはイスラエル、パレスティナ、レバノンと、動乱の地が拡がっている。本土側は水路の淡水のお陰で緑があり、集落がある。運河防衛のための軍事施設や、中東戦争の記念碑がある。第一次世界大戦時の「運河防衛記念碑」もある。渡河用の浮き橋の備えもある。

パナマ運河と比べて、運河の幅は実に広い。だが両岸から砂が絶え間なく流れ込んで、浅い。だから対面航行が出来ず、船団を組んで運河に入航し、運河内にある湖で、前方からやってくる船団と待ち合わせた上ですれ違うのだ。浚渫船が活躍しているが、対症療法のようで、水深を増すのにはあまり役立っていないような印象を得た。

午後2時ごろ、ポートスエズをかすめて紅海に入った。チュニジア、エジプトの政変を生み、いま欧米軍に攻撃されている内戦さなかのリビヤのある地中海を後方の彼方に意識しつつ、サウディアラビアのジッダを目指す。

2011年3月24日紅海にて

伊高浩昭

2011年3月25日金曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(11)

船は3月23日、ポートサイドに着き、早朝バスの車列を組んでカイロに向かった。ポートサイドの港と街中、沿道、カイロ市内のいずれにも陸軍戦車部隊が展開し、政変後の暫定軍政下での実質的な戒厳令状況を示している。トケ・デ・ケダ(夜間外出禁止令)は午前零時から朝6時までだ。


検問も厳しい。車列を観光警察巡視車が先導し、それぞれのバスには自動小銃を背広の後ろに隠した若い警備官が乗った。エジプト観光省は、観光相がわざわざ東京のPB本部にエジプト上陸を中止しないでほしいと書簡を送っただけあって、精一杯歓迎してくれた。PB到着、ギザのピラミッド訪問などはエジプト各紙、テレビ・ラジオ、間網新聞で報じられた。

夜半、港に戻ると、PB船の舷門前で、観光省が手配した妖艶な若者たち(男性ばかり)の舞踊団がアラブ風の曲に合わせて、不思議な踊りを披露してくれた。私も招かれ引き込まれ、彼らと共に30分も踊ってしまった。後で「酔っ払っていたのではないですか」と、日本人乗客らから無粋な質問をされた。粋で洒落た地元の文化だから、喜んで踊ったのだ。

カイロの街は、貧富格差が著しい。それが街並みにはっきりと現れている。30年も支配して貧困問題を解決できなかったムバラク腐敗独裁は蹴倒されて当然だった、と人々は言う。古代エジプト文明の発掘物を集めた博物館の横手にある高層の「女性評議会」ビルは焼け焦げていた。政変劇の生々しい「遺跡」である。しばらくはこのまま放置され、いずれは建て直されるのだろう。

館内には、ラムセス2世ら往時の国王らのミイラ、ミイラ棺、副葬品、巨大な石像群があった。夜たった独りで館内を歩いたら、さぞ不気味な思いがすることだろう。懐かしかったのは、半世紀ぐらい前に東京で観た少年王トゥタンカーメンのミイラの頭部を覆っていた、あの素晴らしい面だ。しばし再会を味わった。

午後は、カイロに隣接したギザのピラミッド群を観た。街とピラミッドのある砂漠の境界は石の壁で、そこで砂漠が止まっている、というか食い止められているのが面白い。「エジプトはナイルの賜物」と古来言われるように、カイロの街中をながれるナイルの潤沢な水が街と農業を生かしてきたのだ。至るとことに灌漑用水路があり、砂漠を意識した人間の知恵や対処法が伺える。

観光省職員や日本語ガイドたちは「日本と連帯する」という主旨の文字をつけたそろいのTシャツを着、「日本、東北地方と連帯する」と書いた横断幕を掲げた。欧米や中韓の団体観光客も来ていた。だが観光省は、世界一周船で750人の日本人が来たことを最大限に評価しつつ、その来船を宣伝して、「エジプト観光の安全性」を内外に訴えたかったのだ。

白状するが、スフインクスに恋をしてしまった。7歳の頃、「世界の不思議」という写真集で初めてスフインクスとピラミッド群の写真を観たのだが、それから60年もの歳月が経って、初めて本物の光景に身を置いた。感動し、巨大なこの半人半獣像の前で一時間動けなくなってしまた。じっと見つめ合いながら、自分の半生、世界、日本と世界の状況を考えた。

ピラミッドだけならば、私はアステカやマヤのピラミッドの方に惹かれる。だがスフインクスの存在によって、ギザのピラミッドは輝くのだ。この光景に別れを告げ、一キロあまり離れたレストランで夕食をとったが、カイロへの出発までに40分間猶予があった。水タバコやカフェで人々が憩う夕暮れの下町を私は急ぎ足で通過し、再びスフインクスの見える柵まで辿り着いた。もはや近くには行けない。だが日の入り直前、夕闇迫る中で像とピラミッド群は、その日最後の輝きを見せていた。私は5分間たたずみ、知っているかぎりの言葉で「さようなら」を告げ、バスの停車場に戻った。スフインクスとの対面は、この旅で最も感激した場面だった。

2011年3月23日

カイロで伊高浩昭

波路はるかに~伊高先生の船上便り(10)

 船は3月21日、トルコ・エーゲ海沿岸のクシャダスに入港し、近郊のローマ帝国エフェソス遺跡を訪ねた。広大な都市跡は、1900年以上昔の都会人の生活の痕跡であふれている。直径100メートルもの最大級の劇場は今でも使われているが、その昔、クレオパトラがエジプトからやって来て観劇したという。クレオパトラの妹は姉に敵視され、斬首されたというが、その妹の墓というのもある。ガイドや案内書の説明は神話めいているが、信じるも良し、信じないのも良しだろう。


 2階建ての豪壮な図書館跡もあった。男が十数人並んで腰掛けて用をたす水洗便所跡もある。売春宿は古代都市には付き物のようで、ポンペイにもエフェソスにもあった。それにしても石造文化は執念深く、千年王国の滅びた後も、その何倍もの歳月、往時の姿をいまの世代にさらすのだ。近郊の丘には、セルジュックトルコの城址があった。世界史の一局面の名残を目で観、足で歩く思いがする。ここでも大地震・原発事故の見舞いを受けた。船は夜、エジプトに向けて出航した。

2011年3月21日

PBオセアニック号にて 伊高浩昭

2011年3月23日水曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り9

遅くなりましたが、3月20日に着信した、伊高先生の船上便りをお送りします。

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PBオセアニック号は3月19日、アテネのピレウス港に入港した。750人の乗客中、若い娘さんを中心とする約60人がPB職員とともに、大震災被災地への義援金を集める募金活動を3時間展開した。アクロポリスの見える都心の広場で、横断幕を掲げ、歌を歌い、「どうか日本に支援を(プリーズ・サポート・ジャパン)」と叫ぶと、アテネ市民は立ち止まり、小銭を募金箱に入れてくれた。船上講師の私も、若者たちに混ざって、この活動に参加した。3時間の活動で、ユーロを換算して1000米ドルを上回る浄財が集まった。昨年来の財政破綻で苦境にあるギリシャだが、この日も労働者の大規模なデモがあり、交通は渋滞した。しかし市民は、日本の歴史的な災害に連帯してくれた。風船売りの女性も街の音楽家も、生活は楽でないはずだが、惜しみなく小銭を投函してくれた。異国の市民の連帯をたっぷり受けた乗客の娘さんたちは、この活動を通じ市民として成長したはずだ。


だが地中海の対岸のリビヤでは、一部のNATO軍が19日攻撃を加え、少なからぬ死傷者が出た。我らの船は、極めて複雑な心境で航行を続けている。20日はギリシャのミコノス島に寄港した。

波路なるかに~伊高先生の船上便り8

遅れましたが、伊高先生からの船上便りを掲載いたします。3月19日に着信したものです。

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船は3月15、16両日、ナポリ港に停泊した。早速、ポンペイ遺跡に行った。約2000年前のローマ帝国時代の街が、発掘されて生々しい姿を見せている。日本人がまだ土器の時代にあったころ、現代の都市と本質的に大きく変わらない街並みがあったのだ。普段の生活をしていたさなかに突然、近くのヴェスヴィオ火山が爆発し、街は厚い砂と石の層に覆われ、永い眠りについた。だから、生活の痕跡がいたるところに生々しく残っているのだ。


文明はいつかは滅びる。大地震で危機に陥った日本の原発文明もしかりだろう。私たちは重大な生活上のパラダイム転換を迫られている。遺跡に立ってあらためて、このことを認識した。夜は、ダンテ広場まで旧市街を歩いてから、カンツォーネ酒場で過ごした。

翌日はカプリ島に渡り、パブロ・ネルーダが1951年に亡命生活を送った家を探した。何人かの親切な老人達の協力を得て、その家のありかを突き止めることが出来た。感慨があった。島からソレントに渡り、「帰れソレントへ」の歌の故郷を散策した。彼方にある、ナポリ湾沿岸のナポリ市サンタ・ルチア地区は「はるかなるサンタ・ルチア」や「サンタ・ルチア」の古里だが、往時の漁村は金持ちのヨット港に変わり果て、ナポリ民謡の傑作を生んだ面影は乏しい。

17日、世界自然遺産のストロンボリ島の脇を通り、シチリア島とイタリア半島の「長靴」の突端の間のメッシーナ半島を通過し、エトナ火山の雄姿を遠望、ギリシャに向かう。夜、大地震・原発事故を受けて、どうパラダイム転換を図るべきか、船内討論会を開いた。多くの意見が出された。福島原発はM6・5の地震を想定して建設されていたため、M9・0の巨大地震にはひとたまりもなかった、という事実も専門家から指摘された。20110318

PB船上にて 伊高浩昭

2011年3月12日土曜日

波路はるかに 伊高先生の船上便り~(7)1と2

 モロッコ南東部の古都マラケシュのホテルで3月11日早朝、フランスのテレビ放送で日本での大地震発生を知りました。NHKの大津波の映像が流れたため、日本人たちは不安に陥りました。地震お見舞い申し上げます。


 船は2月末TTのポートオブスペインを発ち、大西洋を横断して8日、カナリア諸島ラス・パルマスに寄港しました。10、11両日はモロッコ・カサブランカに入港していたわけです。明日は地中海に入り、スペインの、マラガに寄港します。大地震発生で、こののんびりした船旅が急に非現実的に感じられるようになりました。立教池袋キャンパスも緊急宿泊所になったようですが、大変ですね。今日はここまでに留めます。


20110311 ジブラルタル海峡に向かいつつあるPB船上で 伊高浩昭

波路はるかに  伊高先生の船上便り ~(7)の2
 PBオセアニック号は3月12日、スペイン地中海岸のマラガに寄港した。私が初めてマラガを訪れたのは36年前の1975年初めで、独裁者フランシスコ・フランコ総統が最後の10カ月を生きていた時だった。だから、小高い丘の上にあるアラブ支配時代のアル・カサル(城砦)に登って当時を振り返り、ひとしおの感慨があった。眼下の彼方にマラガ港が一望でき、いとしいオセアニク号の姿が見えた。丘の真下には、昔と変わらぬ闘牛場がある。最初の時は、この闘牛場の脇から階段を上って丘上の城址に出た。地元民に「あの丘に登る階段はどうなっていますか」と訊くと、「閉鎖されています。強奪など、観光客を狙う犯罪が激発したからです」との答が返ってきた。内戦時代、マラガには「マラガの屠殺者」と呼ばれる血塗られた虐殺者がいた。内戦で敗れた共和派の人々を、公衆の面前で容赦なく殺しまくった人物だ。内戦史を振り返れば、必ずこの屠殺者のことを思い出さざるをえない。


   この日、バスで南方郊外の丘上に建つミハスの白亜の街を訪ねた。いかにもスペイン南部らしい、美しい観光地だ。夜は独りでマラガの中心街を散歩した。ここのカテドラルは鐘楼が片方しかない。マラガ出身者の血を引くベルナルド・ガルベス(1746~1786)は1777年、スペイン領ルイジアナの副王になったが、米国独立戦争で重要な役割を果たし、テキサス州ガルベストンにガルベスの名を残している。マラガ市民が鐘楼を建設しようとしていたころ、ガルべスは米国独立戦争に義勇軍を派遣するようマラガに求めた。若者らが大挙して大西洋を渡って行ったため、鐘楼の片方は建設されないままに終わってしまったという。面白い秘話だ。

   旧市街には、パブロ・ピカーソの生家と、その美術館がある。モスレムから支配権を奪回したキリスト教徒による建築も興味深い。モスクの壁を使い、カトリック教会を築いている。スペイン人はラ米の征服先でも、先住民族の祭壇だったピラミッドを破壊し、見せしめのように、その上にカトリックの神殿を築いた。こうした宗教的因果の歴史がはっきりと見えるのだ。そんな街を歩きながら、気にいったバルに寄っては、ビノティント(赤ワイン)、生ハム、マンチャのチーズ、アンチョビータの酢漬けで旅情を味わった。あるバルのメセーロ(給仕)は、クーバから来た若者だった。ハバナで知り合ったスペイン娘と結婚して、出クーバ、スペイン永住に成功したという。私がクーバやハバナの詳しい話をすると、すっかり喜んで、大いにサービスしてくれた。結局、この店には一晩に二回も立ち寄ることになった。

   帰船時刻は22時だった。ぎりぎりまで歩いて呑んだ。流しのギタリストの音色に乗って「オホス・エスパニョーレス(スペインの瞳)」を歌った。「ク・ク・ルクク・パローマ」や「ラ・マラゲーニャ(マラガ女)」も歌ってしまった。マラガ市民は日本の大地震や原発の悲劇を知っていた。通りすがりの若者の群が、「アリーバ(頑張れ)」と励ましてくれた。

 2011年4月12日 マラガにて 伊高浩昭


2011年3月4日金曜日

《子どもの本でラテンアメリカめぐり》展

《子どもの本でラテンアメリカめぐり》展のおしらせが届きましたので、下記にご紹介いたします。


子どもの本を通して、ラテンアメリカを旅してみませんか? ここでは普通の人たちの日々の暮らしのようすや喜怒哀楽を伝える本が選ばれています。日本語の本には外国語で、外国語の原書には日本語で、簡単な説明がついています。

主催する「日本ラテンアメリカ子どもと本の会」(CLILAJ)は、子どもの本をつうじて、日本とラテンアメリカをつないでいこうとする会です。日本人や日本在住のラテンアメリカ出身者をはじめとする多くの人びとが、ラテンアメリカをめぐるさまざまな物語と出会う場、本をつうじて豊かな交流が生まれる場となることを願って活動しているそうです。
日時:2011年3月12日(土)、13日(日)10:00-17:00
会場:ゲートシティ大崎地下1階 ギャラリー 
   子どもの本の日フェスティバル内
http://www.gatecity.jp/
JR大崎駅すぐ(品川区大崎1-11-1)

※入場無料

展示内容:
・日本語とスペイン語・ポルトガル語の絵本70点を展示。
・コロンブス関連の子どもの本を中心に、ラテンアメリカの歴史を考える《歴史コーナー》
・絵本の読み聞かせ
・パペル・ピカド(メキシコの切り絵)のワークショップ
・ラテンアメリカ・クイズラリー
・カポエィラ(ブラジルの格闘演舞)の実演も予定

企画構成:日本ラテンアメリカ子どもと本の会(CLILAJ)
http://clilaj.blogspot.com/

tokioclilaj@gmail.com

2011年3月3日木曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(6)

◎元受講生と感激の再会


 2月28日午前11時、安間美香さんがPBを訪れた。4ヶ月ぶりの再会だった。ここカリブ海アンティージャス諸島最南端のTT(トゥリニダード・トバゴ)首都ポートオブスペインに停泊中のオセアニック号に、昨秋まで立教大学ラ米研受講生で、現在、日本大使館に専門調査員として勤務中の彼女が来てくれたのだ。船内を見学し、昼食をとってから、彼女の車で大使館に行き、岩田大使に小一時間インタビューした。その内容は次回、詳しく報告したい。人材豊かなラ米研に在籍した安間さんは、TTと周辺諸国の政情を調査している。先ごろ、南米北部のスリナム(旧蘭領ギアナ)への出張任務を無事こなした。たくましさを身につけつつある彼女の躍動が楽しみだ。

20110228 ポートオブスペイン港で伊高浩昭

2011年3月2日水曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(5)

船は2月25日、コロンビアのカルタヘーナ港に入った。乗客の中にいる広島・長崎の被爆者約10人は、地元の大学で証言会を開いた。折からカルタヘーナ市に滞在中のフアンマヌエル・サントス大統領は日程に隙間をつくり、被爆者たちを迎えた。10分間だけだったが、核兵器全廃のために闘っている彼らの志は十分に大統領に伝わった。


私は、経済自立を目指す地元のアフリカ系住民の町に行き、暮らしぶりを取材した。住宅の裏庭にマンゴー、ココ椰子、オレンジなどの苗木を植え、これを育てて自給自足し、余剰を商品として売るという計画だ。環境問題と社会問題に取り組んでいる「コンティキ」というNGOが計画を支援している。庭の果実が人々の生活を潤すようになるまでには時間が相当にかかりそうだが、人々の心に希望が生まれているのを実感した。

明日28日は、TTのポートオブスペインだ。15年ぶりだろうか。だがカリプソ「バナナボート」の舞台となった港を見るのは初めてで、これが楽しみだ。ハリー・ベラフォンテのあの歌が自然に口から出てくる。

20110227 pb船上にて サルバドール