2011年6月1日水曜日

伊高浩昭の読書日記(No.2)

   あるメキシコ人作家の『愛のパレード』という翻訳書を読んだ。私にとっては駄作だった。スペイン政府主催のセルバンテス賞の受賞作家の作品だというが、この小説に関する限り、この賞の受賞者の作品とは思えない内容だ。この小説には、主人公をはじめたくさんの人物が登場し、相互に複雑に絡み合う。ミステリー仕立ての物語の展開はあるが、人間が描かれていないのだ。登場人物たちは盛んに動き回るが、それらの人物には血が通っていない。ただ分厚い紙数とともに物語が進むだけで、読むのが苦痛だった。

   近年、スペインやラ米の作家たちの小説をある程度読んできたが、この種の「人間が描かれていない」ものがやたらに目立つ。ガブリエル・ガルシア=マルケス(GGM)、マリオ・バルガス=ジョサ(MVLL)、カルロス・フエンテス(CF)ら、ラ米大作家時代の作家たちはまだ何人か健在だが、後続の作家群が大作家になれないわけ、大作家たちを超えられない理由がわかろうというものだ。

   たとえば、GGMの『百年の孤独』(私は『孤独の百年』が適訳だと思うが)を真似した「百年単位」で物語を展開させる手法がやたらにはやっている。だが、それらの「亜流」では、人間が機械仕掛けの人形のように動くだけで、人生観、世界観、信条、苦悩、情感などがほとんど描かれていない。描く能力がないのか、描く必要はないと思っているのか、どちらかだろう。それとも、時代がすっかり変わってしまい、非人間的なこの世の中には、人間などいなくなってしまった、とでも言いたいのか。

   この種の「無機物のような小説」は、やたらに衒学的、多弁駄弁を弄するものが多く、空しいだけだ。500ページを上回る大部が少なくないが、ボルヘスならば半ページもあれば処理するのに十分な内容だろう。ハードボイルド風の主人公が出てきても、チャンドラーが世に出したような、苦悩しつつ現代社会を生きる主人公とはまったく異なり、ひたすら物語のなかを泳ぎ動き回るだけなのだ。

   「語彙の多さ」や「修辞の美」を誇るスペイン語国民の作家たちであるはずなのに、言葉をやたらに並べるだけで、「真の美」つまり生きた人間の登場する小説が書けなくなってしまったのは何故なのか。セルバンテス賞も、選考委員たちの審美眼も変わってしまったのだろうか。6月末にMVLLが来日する予定だが、機会があれば、これらの点を質問してみたい。