2012年7月21日土曜日

波路はるかに


ラテンアメリカ論IIの伊高講師より、お約束の船上エッセイが届きましたので掲載します。


PBオーシャンドゥリーム号はベネズエラ西部とコロンビアの沖を航行し、パナマ運河カリブ海側のコロン市サンクリストーバル港に19日入港した。グアヤキル在住のギタリスト小林隆平さんは、船上講師仲間で、隆平さんと一緒にタクシーで80km北方のパナマ市に行った。運河沿いの64kmを含む両市間には片側2車線の自動車道が開通済みで、わずか30分で首都に行き着いてしまった。これは画期的なことだ。

旧運河地帯を観たところ、数年前に来た時とあまり変わってはいなかった。だが、ラス・アメリカス橋のたもとにあるエル・チョリージョ地区に行くと、一帯は大きく変わっていた。1989年12月に米軍が侵攻し、「最大8000人が殺害された可能性がある」と報告された同地区では、伝統的な熱帯建築様式の木造大型家屋が幾つも破壊された。この軍事侵攻後、地区は素早く平地にされ、米軍侵攻による破壊の跡は消し去られた。

そこには今や、鉄筋コンクリートの熱帯式大型家屋が並び建てられている。マヌエル・ノリエガ将軍が君臨していたパナマ軍司令部も米軍に破壊されたが、跡地は公園になっていた。これらの新しい建設によって、歴史は真実に触れることなく迂回して、忘却と曖昧の方向に進んでしまった。

旧市街(カスコ・ビエホ=パナマ・ビエハ)から海岸通り沿いに東に広がっていたパナマ湾岸地帯には、高層ビルが建ち並んでいる。今回ビルは一層増えており、さながら〈小型バンクーバー〉という印象だった。この〈パナマ・ヌエバ〉は金満家しか住めない地区とされ、いかにも成金的で、文化や伝統の感じられない空虚な一大空間だった。パナマはラ米の一国だが、この摩天楼からはラ米性はまったく感じられない。

夜、サンクリストーバル港のバルで会う約束をしていたクナ民族の衣装モラのデザイナーである友人に手違いで会えなかったのが心残りだ。

船内では、東京での反原発17万人デモの報告があり、「広島・長崎・福島を経験した日本人がなぜ原発再開を許すのか」との疑問がラ米でも世界でも広がっていると、指摘された。日本の〈下り坂=クエスタ・アバホ〉は経済・政治だけでなく、思想・倫理・文化にも及んでいる。東電、政府、マスメディア、原発専門家らは福島原発事故後、「80km圏内は放射能汚染の危険地帯」であると知りながら、「恐慌=パニック」を誘発してはいけないとの判断で、圏外への緊急退避勧告を発動したり報道したりするのを控えた、という実態も伝えられた。

船は20日早朝、出港し、8時間で運河を通過して、太平洋側に出た。私にとって10回近い運河通航となった。次の目的地は、ニカラグアのコリント港だ。

【7月19~20日パナマにて伊高浩昭】