2011年3月25日金曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(10)

 船は3月21日、トルコ・エーゲ海沿岸のクシャダスに入港し、近郊のローマ帝国エフェソス遺跡を訪ねた。広大な都市跡は、1900年以上昔の都会人の生活の痕跡であふれている。直径100メートルもの最大級の劇場は今でも使われているが、その昔、クレオパトラがエジプトからやって来て観劇したという。クレオパトラの妹は姉に敵視され、斬首されたというが、その妹の墓というのもある。ガイドや案内書の説明は神話めいているが、信じるも良し、信じないのも良しだろう。


 2階建ての豪壮な図書館跡もあった。男が十数人並んで腰掛けて用をたす水洗便所跡もある。売春宿は古代都市には付き物のようで、ポンペイにもエフェソスにもあった。それにしても石造文化は執念深く、千年王国の滅びた後も、その何倍もの歳月、往時の姿をいまの世代にさらすのだ。近郊の丘には、セルジュックトルコの城址があった。世界史の一局面の名残を目で観、足で歩く思いがする。ここでも大地震・原発事故の見舞いを受けた。船は夜、エジプトに向けて出航した。

2011年3月21日

PBオセアニック号にて 伊高浩昭

2011年3月23日水曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り9

遅くなりましたが、3月20日に着信した、伊高先生の船上便りをお送りします。

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PBオセアニック号は3月19日、アテネのピレウス港に入港した。750人の乗客中、若い娘さんを中心とする約60人がPB職員とともに、大震災被災地への義援金を集める募金活動を3時間展開した。アクロポリスの見える都心の広場で、横断幕を掲げ、歌を歌い、「どうか日本に支援を(プリーズ・サポート・ジャパン)」と叫ぶと、アテネ市民は立ち止まり、小銭を募金箱に入れてくれた。船上講師の私も、若者たちに混ざって、この活動に参加した。3時間の活動で、ユーロを換算して1000米ドルを上回る浄財が集まった。昨年来の財政破綻で苦境にあるギリシャだが、この日も労働者の大規模なデモがあり、交通は渋滞した。しかし市民は、日本の歴史的な災害に連帯してくれた。風船売りの女性も街の音楽家も、生活は楽でないはずだが、惜しみなく小銭を投函してくれた。異国の市民の連帯をたっぷり受けた乗客の娘さんたちは、この活動を通じ市民として成長したはずだ。


だが地中海の対岸のリビヤでは、一部のNATO軍が19日攻撃を加え、少なからぬ死傷者が出た。我らの船は、極めて複雑な心境で航行を続けている。20日はギリシャのミコノス島に寄港した。

波路なるかに~伊高先生の船上便り8

遅れましたが、伊高先生からの船上便りを掲載いたします。3月19日に着信したものです。

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船は3月15、16両日、ナポリ港に停泊した。早速、ポンペイ遺跡に行った。約2000年前のローマ帝国時代の街が、発掘されて生々しい姿を見せている。日本人がまだ土器の時代にあったころ、現代の都市と本質的に大きく変わらない街並みがあったのだ。普段の生活をしていたさなかに突然、近くのヴェスヴィオ火山が爆発し、街は厚い砂と石の層に覆われ、永い眠りについた。だから、生活の痕跡がいたるところに生々しく残っているのだ。


文明はいつかは滅びる。大地震で危機に陥った日本の原発文明もしかりだろう。私たちは重大な生活上のパラダイム転換を迫られている。遺跡に立ってあらためて、このことを認識した。夜は、ダンテ広場まで旧市街を歩いてから、カンツォーネ酒場で過ごした。

翌日はカプリ島に渡り、パブロ・ネルーダが1951年に亡命生活を送った家を探した。何人かの親切な老人達の協力を得て、その家のありかを突き止めることが出来た。感慨があった。島からソレントに渡り、「帰れソレントへ」の歌の故郷を散策した。彼方にある、ナポリ湾沿岸のナポリ市サンタ・ルチア地区は「はるかなるサンタ・ルチア」や「サンタ・ルチア」の古里だが、往時の漁村は金持ちのヨット港に変わり果て、ナポリ民謡の傑作を生んだ面影は乏しい。

17日、世界自然遺産のストロンボリ島の脇を通り、シチリア島とイタリア半島の「長靴」の突端の間のメッシーナ半島を通過し、エトナ火山の雄姿を遠望、ギリシャに向かう。夜、大地震・原発事故を受けて、どうパラダイム転換を図るべきか、船内討論会を開いた。多くの意見が出された。福島原発はM6・5の地震を想定して建設されていたため、M9・0の巨大地震にはひとたまりもなかった、という事実も専門家から指摘された。20110318

PB船上にて 伊高浩昭

2011年3月12日土曜日

波路はるかに 伊高先生の船上便り~(7)1と2

 モロッコ南東部の古都マラケシュのホテルで3月11日早朝、フランスのテレビ放送で日本での大地震発生を知りました。NHKの大津波の映像が流れたため、日本人たちは不安に陥りました。地震お見舞い申し上げます。


 船は2月末TTのポートオブスペインを発ち、大西洋を横断して8日、カナリア諸島ラス・パルマスに寄港しました。10、11両日はモロッコ・カサブランカに入港していたわけです。明日は地中海に入り、スペインの、マラガに寄港します。大地震発生で、こののんびりした船旅が急に非現実的に感じられるようになりました。立教池袋キャンパスも緊急宿泊所になったようですが、大変ですね。今日はここまでに留めます。


20110311 ジブラルタル海峡に向かいつつあるPB船上で 伊高浩昭

波路はるかに  伊高先生の船上便り ~(7)の2
 PBオセアニック号は3月12日、スペイン地中海岸のマラガに寄港した。私が初めてマラガを訪れたのは36年前の1975年初めで、独裁者フランシスコ・フランコ総統が最後の10カ月を生きていた時だった。だから、小高い丘の上にあるアラブ支配時代のアル・カサル(城砦)に登って当時を振り返り、ひとしおの感慨があった。眼下の彼方にマラガ港が一望でき、いとしいオセアニク号の姿が見えた。丘の真下には、昔と変わらぬ闘牛場がある。最初の時は、この闘牛場の脇から階段を上って丘上の城址に出た。地元民に「あの丘に登る階段はどうなっていますか」と訊くと、「閉鎖されています。強奪など、観光客を狙う犯罪が激発したからです」との答が返ってきた。内戦時代、マラガには「マラガの屠殺者」と呼ばれる血塗られた虐殺者がいた。内戦で敗れた共和派の人々を、公衆の面前で容赦なく殺しまくった人物だ。内戦史を振り返れば、必ずこの屠殺者のことを思い出さざるをえない。


   この日、バスで南方郊外の丘上に建つミハスの白亜の街を訪ねた。いかにもスペイン南部らしい、美しい観光地だ。夜は独りでマラガの中心街を散歩した。ここのカテドラルは鐘楼が片方しかない。マラガ出身者の血を引くベルナルド・ガルベス(1746~1786)は1777年、スペイン領ルイジアナの副王になったが、米国独立戦争で重要な役割を果たし、テキサス州ガルベストンにガルベスの名を残している。マラガ市民が鐘楼を建設しようとしていたころ、ガルべスは米国独立戦争に義勇軍を派遣するようマラガに求めた。若者らが大挙して大西洋を渡って行ったため、鐘楼の片方は建設されないままに終わってしまったという。面白い秘話だ。

   旧市街には、パブロ・ピカーソの生家と、その美術館がある。モスレムから支配権を奪回したキリスト教徒による建築も興味深い。モスクの壁を使い、カトリック教会を築いている。スペイン人はラ米の征服先でも、先住民族の祭壇だったピラミッドを破壊し、見せしめのように、その上にカトリックの神殿を築いた。こうした宗教的因果の歴史がはっきりと見えるのだ。そんな街を歩きながら、気にいったバルに寄っては、ビノティント(赤ワイン)、生ハム、マンチャのチーズ、アンチョビータの酢漬けで旅情を味わった。あるバルのメセーロ(給仕)は、クーバから来た若者だった。ハバナで知り合ったスペイン娘と結婚して、出クーバ、スペイン永住に成功したという。私がクーバやハバナの詳しい話をすると、すっかり喜んで、大いにサービスしてくれた。結局、この店には一晩に二回も立ち寄ることになった。

   帰船時刻は22時だった。ぎりぎりまで歩いて呑んだ。流しのギタリストの音色に乗って「オホス・エスパニョーレス(スペインの瞳)」を歌った。「ク・ク・ルクク・パローマ」や「ラ・マラゲーニャ(マラガ女)」も歌ってしまった。マラガ市民は日本の大地震や原発の悲劇を知っていた。通りすがりの若者の群が、「アリーバ(頑張れ)」と励ましてくれた。

 2011年4月12日 マラガにて 伊高浩昭


2011年3月4日金曜日

《子どもの本でラテンアメリカめぐり》展

《子どもの本でラテンアメリカめぐり》展のおしらせが届きましたので、下記にご紹介いたします。


子どもの本を通して、ラテンアメリカを旅してみませんか? ここでは普通の人たちの日々の暮らしのようすや喜怒哀楽を伝える本が選ばれています。日本語の本には外国語で、外国語の原書には日本語で、簡単な説明がついています。

主催する「日本ラテンアメリカ子どもと本の会」(CLILAJ)は、子どもの本をつうじて、日本とラテンアメリカをつないでいこうとする会です。日本人や日本在住のラテンアメリカ出身者をはじめとする多くの人びとが、ラテンアメリカをめぐるさまざまな物語と出会う場、本をつうじて豊かな交流が生まれる場となることを願って活動しているそうです。
日時:2011年3月12日(土)、13日(日)10:00-17:00
会場:ゲートシティ大崎地下1階 ギャラリー 
   子どもの本の日フェスティバル内
http://www.gatecity.jp/
JR大崎駅すぐ(品川区大崎1-11-1)

※入場無料

展示内容:
・日本語とスペイン語・ポルトガル語の絵本70点を展示。
・コロンブス関連の子どもの本を中心に、ラテンアメリカの歴史を考える《歴史コーナー》
・絵本の読み聞かせ
・パペル・ピカド(メキシコの切り絵)のワークショップ
・ラテンアメリカ・クイズラリー
・カポエィラ(ブラジルの格闘演舞)の実演も予定

企画構成:日本ラテンアメリカ子どもと本の会(CLILAJ)
http://clilaj.blogspot.com/

tokioclilaj@gmail.com

2011年3月3日木曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(6)

◎元受講生と感激の再会


 2月28日午前11時、安間美香さんがPBを訪れた。4ヶ月ぶりの再会だった。ここカリブ海アンティージャス諸島最南端のTT(トゥリニダード・トバゴ)首都ポートオブスペインに停泊中のオセアニック号に、昨秋まで立教大学ラ米研受講生で、現在、日本大使館に専門調査員として勤務中の彼女が来てくれたのだ。船内を見学し、昼食をとってから、彼女の車で大使館に行き、岩田大使に小一時間インタビューした。その内容は次回、詳しく報告したい。人材豊かなラ米研に在籍した安間さんは、TTと周辺諸国の政情を調査している。先ごろ、南米北部のスリナム(旧蘭領ギアナ)への出張任務を無事こなした。たくましさを身につけつつある彼女の躍動が楽しみだ。

20110228 ポートオブスペイン港で伊高浩昭

2011年3月2日水曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(5)

船は2月25日、コロンビアのカルタヘーナ港に入った。乗客の中にいる広島・長崎の被爆者約10人は、地元の大学で証言会を開いた。折からカルタヘーナ市に滞在中のフアンマヌエル・サントス大統領は日程に隙間をつくり、被爆者たちを迎えた。10分間だけだったが、核兵器全廃のために闘っている彼らの志は十分に大統領に伝わった。


私は、経済自立を目指す地元のアフリカ系住民の町に行き、暮らしぶりを取材した。住宅の裏庭にマンゴー、ココ椰子、オレンジなどの苗木を植え、これを育てて自給自足し、余剰を商品として売るという計画だ。環境問題と社会問題に取り組んでいる「コンティキ」というNGOが計画を支援している。庭の果実が人々の生活を潤すようになるまでには時間が相当にかかりそうだが、人々の心に希望が生まれているのを実感した。

明日28日は、TTのポートオブスペインだ。15年ぶりだろうか。だがカリプソ「バナナボート」の舞台となった港を見るのは初めてで、これが楽しみだ。ハリー・ベラフォンテのあの歌が自然に口から出てくる。

20110227 pb船上にて サルバドール