2011年4月4日月曜日

波路はるかに~伊高先生の船上たより(17)

PBオセアニック号は4月3日、インド西南岸の港町コーチンに寄港した。港に降り立ち、インド人のたたずまいや、ココ椰子、ナツメ椰子、マンゴーや名も知らない巨木が生い茂る森、インド洋から切り離された、大河のような潟湖などを観て、悠久な大地であるのを実感した。景観と、湿気の多い気候は、メキシコ南部にも似ている。


街に出ると、その昔、ポルトガル人が建設した歴史の味麗しい聖フランシスコ教会の偉容が目に飛び込んできた。欧州・インド航路を切り拓いたヴァスコ・ダ・ガマが死ぬと、遺体はこのこの教会に安置された。だが14年後、遺言に基づいて遺体はリズボア(リスボン)に運ばれた。500余年前の世界史の現場にたたずんだ気持になり、しばし瞑想した。

海水と淡水が入り混じる潟湖では、800年も前に中国から伝わったという「大網漁法」があちこちで行なわれている。これを見て思い当たったのは、少年時代、小魚を獲るのに使っていた「四手網(よつであみ)」だ。これを川や池に仕掛けておいて引き上げると、口細、鮒、メダカ、ザリガニなどがよくかかった。この四手網を100倍くらい大きくした形の網を、巨大な木製のてこと錘を使って、湖底に沈めたり引け揚げたりする。一回の捕獲量は小さい。1日に6時間、計100回以上も大網を操って漁民らはエビ、ボラ、蟹などを獲り、別の方法で獲った蜆(しじみ)などとともに魚市場に卸して生計を立てていると聞いた。中国は明(みん)の時代にインド洋航路に本格的に進出した。おそらくそのころ、大網漁法もインドに伝えられたのだろう。高価な緑蟹(グリーンクラブ)の養殖池もあった。

村芝居やお神楽のような芸を観た。王子にむりやり嫁ぎたい野心的な娘が、強引に王子に関係を迫り、王子から刀であちこちを斬られてしまうという、二人芝居で、娘役も男だった。能、狂言の舞台にもかすかに似ていると思った。この芝居を観る前に食べた本場のカレー料理は、実にうまかった。御代わりしないではいられなかった。

街には、1568年に建立されたシナゴーグ(ユダヤ教寺院)があった。紀元2世紀頃、ローマ帝国がエルサレム(パレスティナ)を制圧すると、ユダヤ人の一部はインド洋に逃れた、そんなユダヤ人がコーチンに定住し、自分たちの寺院を建てたのだ。ローマ帝国、ポルトガル、イスラム教徒に迫害された史実が、展示されている絵で語られている。寺院の床に張り詰められている正方形の青いタイルは絵柄から中国製とすぐにわかる。ポルトガル人は中国の青タイルを自国に運んで、絵柄を変え、「アスレージョ」にしたらしい。

シナゴーグに近い「オランダ館」には、ヒンズー教の神々の生活を描いた300年まえの壁画群が残されている。鮮やかな色彩、官能的な姿、即j物的な表現が特色で、「生と性」を謳歌した教徒らの行き方が読み取れる。街のいくつかの店では、「カーマストラ」

の絵や本が売られていた。浮世絵の枕絵と比べ、男女の表情が明るく、絵柄も大らかだ。カースト制度を生んだヒンズー教だが、生々しい「生と性」の表現は洒落ている。

2011年4月3日

印度コーチンにて 伊高浩昭