「PBオセアニック号は4月11日、ボルネオ島北側のマレーシア・サバ州都コタ・キナバル(KK)に寄港した。シンガポールから南シナ海を北東に五十数時間航行して、朝方に到着した。戦時中、日本軍が拠点を設け、連合軍と攻防戦を展開した地だ。同じ熱帯でも、赤道に近いシンガポールよりもKKの方が暑く、歩くだけで汗が流れる。
この地域の深刻な問題は、森林の乱伐が進み、生態系が破壊され、生息する動植物、とりわけオランウータンの個体数が急速に減りつつあることだ。先日インドのコーチンで、マレーシアから輸入された丸太が港の一角に山積みされているのを見て、背筋が寒くなる思いをしたが、この丸太の大方の出所がボルネオ島なのだ。
オランウータンを絶滅の危機から救おうと幾つかの取り組みが進められている。その一つが、「ボルネオ保全トラスト・ジャパン(BCTジャパン)」という組織だ。その理事である坂東元・旭山動物園長が船上講師としてシンガポールからオセアニック号に乗り、同組織の取り組みについて講演した。そのこともあって、動物園に行った。「野生を失わせてはいけない」という理由で、人間に慣れたオランウータンが1匹だけ展示され、芸を演じていた。船客たちはオランウータンを救うため、「緑の回廊」を築く同組織の運動にカンパし、かなりの浄財が集まった。
KKの街は発展している。イスラム教国であることと関係すると思うのだが、いくら探しても酒類の販売店が見つからなかった。酒場やレストランで飲む酒はあっても、船に持ち帰る酒は買うことが出来なかった。特定の販売店に行かなければ手に入らないのかもしれない。
船は日没直前にKK港を出航し、南シナ海を再び北東に進路をとり、最終寄港地マニラに向かい始めた。かつて海賊が出没した海域であるため、夜間航行中は窓のカーテンを閉めるのが義務づけられ、デッキでの散歩も規制される。
2011年4月11日
船上にて 伊高浩昭
立教大学ラテンアメリカ研究所事務局が講演会やラテンアメリカ講座に関する日々の様々な出来事とラテンアメリカ関連情報をお伝えします。La secretaría del Instituto informa las novedades sobre las conferencias y el curso del Instituto de estudios latinoamericanos de la Universidad Rikkyo.
2011年4月13日水曜日
2011年4月9日土曜日
波路はるかに~伊高先生の船上便り(19)
船がインド洋本洋から、その北東端のアンデマンダン海南端と、スマトラ島(インドネシア)北端をかすめてマラッカ海峡に入って3日目の4月8日朝、左舷側のマレー半島と右舷側のスマトラ島が接近するころ、左舷側の彼方にシンガポールのラスカシエラス(高層ビル群のスカイライン)が見えた。海上から天にそびえるこの摩天楼は、ニューヨークの4分の1くらいの規模だろうか。港は、まさに海岸の開発地にあり、ガウディの曲線とピサの斜塔の傾斜を併せ持つような大型ビルが建設中だった。港の上を、隣接する島に繋がる空中ケーブルカーが頻繁に行き来している。
だが都市国家シンガポールの手前の海岸は、マレーシア領を含めて石油コンビナートと貯油タンク基地が連なる。港の外は、沖待ちのタンカー、油化タンカー、コンテナ船、貨物船などがひしめき、水先案内人の舵さばきで船は徐行する。巨大船の谷間のような海に、小さな手漕ぎの漁船が出漁し、魚を釣っている。「アジア的情景」の名残を、小さな漁船に見た。一帯の光景は、経済の隆盛を反映させながらも、乱開発の危険性を感じさせ、経済成長期に破壊された日本の海岸線に思いを馳せた。地球は、この地でも悲鳴を上げている。
私は小学校時代に、南洋一郎(みなみ・よういちろう)の「海洋冒険小説シリーズ」に親しんだ。そのなかに、題名の記憶は定かではないが、『深海の魔魚』とかいう本があった。
マレー半島南端とシンガポール島の間のジョホール水道が舞台で、「畳10畳もの大きさの頭を持つ」大蛸が出没し、航行する船の人を海に引き込んでは餌食にしていたが、主人公が退治に乗り出したところ、その主人公も体を絡め取られ吸盤で吸いつけられ、あわや海に引っ張り込まれそうになる。その瞬間、部下のマレー人が毒を塗った吹き矢を放つ。矢は大蛸の脚に命中し、主人公はからくも海に引き込まれずに助かる。それから何日から経ってから、海面に大蛸の死体が浮いていた。。。。というような物語だ。
以来、私は、いつの日かジョホールの海を訪れたいと思い、願っていた。それが、ついに叶った。シンガポールから地下鉄を乗り継ぎ、バスに乗ってジョホール水道上の橋を渡り、マレーシアのジョホールバルに行き着いたのだ。マレー人、華人、インド人らが入り混じった他民族の街で、頭部を布で覆ったマレー人女性イスラム教徒の姿がちらほら見られた。時間の都合で、ビールを飲み、街を少し歩いただけで、再びジョホール水道を越えてシンガポールに戻った。往復ともに出入国管理所と税関を通る。私は朝、船でシンガポールに入港し、夕刻、マレーシアからまたシンガポールに入国したことになる。
幅300mかそこらの狭い水道で、船は航行しない。マラッカ海峡とシンガポール海峡を伝ってインド洋と南シナ海(太平洋西端)が結ばれているため、水道の航行価値がないからだ。私は、ジョホール水道を2度バスで越え、ジョホールバル側から水道の畔に立って、小学生時代からの夢が実現したのを静かに喜んだ。
夕食は、港に近い中華街で食べたが、味が濃くて辛く、慣れ親しんでいる横浜中華街の味に軍配を上げた。地下鉄内で観察した、圧倒的に華人が多いシンガポール人の表情は、経済が発展した「第1世界」の労働者・勤労者のそれで、日本の電車内とあまり変わらない。生活と社会の発展が、人間を小ざかしくし、つまらなくするのだ。だが私は中年の華人から座席を譲られた。「シェーシェー」と言って、座らせてもらった。彼は笑顔を見せてくれた。このとき、かすかに人間味を感じることができた。9日午前零時、船は出航し、マレーシアのボルネオ島の飛び地にあるコタキナバルに向かう。
20110408
シナガポール停泊中のPB船上にて
伊高浩昭
だが都市国家シンガポールの手前の海岸は、マレーシア領を含めて石油コンビナートと貯油タンク基地が連なる。港の外は、沖待ちのタンカー、油化タンカー、コンテナ船、貨物船などがひしめき、水先案内人の舵さばきで船は徐行する。巨大船の谷間のような海に、小さな手漕ぎの漁船が出漁し、魚を釣っている。「アジア的情景」の名残を、小さな漁船に見た。一帯の光景は、経済の隆盛を反映させながらも、乱開発の危険性を感じさせ、経済成長期に破壊された日本の海岸線に思いを馳せた。地球は、この地でも悲鳴を上げている。
私は小学校時代に、南洋一郎(みなみ・よういちろう)の「海洋冒険小説シリーズ」に親しんだ。そのなかに、題名の記憶は定かではないが、『深海の魔魚』とかいう本があった。
マレー半島南端とシンガポール島の間のジョホール水道が舞台で、「畳10畳もの大きさの頭を持つ」大蛸が出没し、航行する船の人を海に引き込んでは餌食にしていたが、主人公が退治に乗り出したところ、その主人公も体を絡め取られ吸盤で吸いつけられ、あわや海に引っ張り込まれそうになる。その瞬間、部下のマレー人が毒を塗った吹き矢を放つ。矢は大蛸の脚に命中し、主人公はからくも海に引き込まれずに助かる。それから何日から経ってから、海面に大蛸の死体が浮いていた。。。。というような物語だ。
以来、私は、いつの日かジョホールの海を訪れたいと思い、願っていた。それが、ついに叶った。シンガポールから地下鉄を乗り継ぎ、バスに乗ってジョホール水道上の橋を渡り、マレーシアのジョホールバルに行き着いたのだ。マレー人、華人、インド人らが入り混じった他民族の街で、頭部を布で覆ったマレー人女性イスラム教徒の姿がちらほら見られた。時間の都合で、ビールを飲み、街を少し歩いただけで、再びジョホール水道を越えてシンガポールに戻った。往復ともに出入国管理所と税関を通る。私は朝、船でシンガポールに入港し、夕刻、マレーシアからまたシンガポールに入国したことになる。
幅300mかそこらの狭い水道で、船は航行しない。マラッカ海峡とシンガポール海峡を伝ってインド洋と南シナ海(太平洋西端)が結ばれているため、水道の航行価値がないからだ。私は、ジョホール水道を2度バスで越え、ジョホールバル側から水道の畔に立って、小学生時代からの夢が実現したのを静かに喜んだ。
夕食は、港に近い中華街で食べたが、味が濃くて辛く、慣れ親しんでいる横浜中華街の味に軍配を上げた。地下鉄内で観察した、圧倒的に華人が多いシンガポール人の表情は、経済が発展した「第1世界」の労働者・勤労者のそれで、日本の電車内とあまり変わらない。生活と社会の発展が、人間を小ざかしくし、つまらなくするのだ。だが私は中年の華人から座席を譲られた。「シェーシェー」と言って、座らせてもらった。彼は笑顔を見せてくれた。このとき、かすかに人間味を感じることができた。9日午前零時、船は出航し、マレーシアのボルネオ島の飛び地にあるコタキナバルに向かう。
20110408
シナガポール停泊中のPB船上にて
伊高浩昭
2011年4月7日木曜日
第59回ベルリン国際映画祭 金熊賞受賞作品「悲しみのミルク」(原題:La teta asustada)
立教大学の桜も満開となりましたが、まだ学生の少ないキャンパスです。
そんな中、ほんの少しだけですが、講座新規受講の問い合わせが始まりました。
愛読書が心を救ってくれるように、映画好きの方に特別素敵な映画のお知らせです。
・・・・・
第59回ベルリン国際映画祭 金熊賞受賞作品 『悲しみのミルク』(原題:La teta asustada)
マリオ・バルガス=リョサのノーベル文学賞受賞に沸く、
南米ペルーの新しい才能――映画監督・クラウディア・リョサ。
バルガス=リョサをおじに持つ彼女の映画には、詩と生命の力が漲っている。
【STORY】
ペルーに暴力が吹き荒れていた時代に母親が経験した苦しみを、母乳を通して受け継
いだと信じている娘・ファウスタ。美しく成長した今でも一人で外を出歩くことがで
きない。しかし、歌を残し逝ってしまった母を故郷の村に埋葬しようと決めたファウ
スタは、その費用を稼ぐため、街の裕福な女性ピアニストの屋敷でメイドの仕事を始
める。ファウスタが口ずさむ歌に心を引きつけられたピアニストは、真珠一粒と引き
替えに、歌を一回歌うという取り決めを交わすのだが――。映画は、堅く閉ざされた
ファウスタの心が、かすかに熱をおびていくさまを寡黙に、しかし鮮やかに描き出し
ていく。
4月2日(土)よりユーロスペース、
4月23日(土)より川崎市アートセンターほか全国順次公開
『悲しみのミルク』公式HP
http://www.kanashimino-milk.jp/
そんな中、ほんの少しだけですが、講座新規受講の問い合わせが始まりました。
愛読書が心を救ってくれるように、映画好きの方に特別素敵な映画のお知らせです。
・・・・・
第59回ベルリン国際映画祭 金熊賞受賞作品 『悲しみのミルク』(原題:La teta asustada)
マリオ・バルガス=リョサのノーベル文学賞受賞に沸く、
南米ペルーの新しい才能――映画監督・クラウディア・リョサ。
バルガス=リョサをおじに持つ彼女の映画には、詩と生命の力が漲っている。
【STORY】
ペルーに暴力が吹き荒れていた時代に母親が経験した苦しみを、母乳を通して受け継
いだと信じている娘・ファウスタ。美しく成長した今でも一人で外を出歩くことがで
きない。しかし、歌を残し逝ってしまった母を故郷の村に埋葬しようと決めたファウ
スタは、その費用を稼ぐため、街の裕福な女性ピアニストの屋敷でメイドの仕事を始
める。ファウスタが口ずさむ歌に心を引きつけられたピアニストは、真珠一粒と引き
替えに、歌を一回歌うという取り決めを交わすのだが――。映画は、堅く閉ざされた
ファウスタの心が、かすかに熱をおびていくさまを寡黙に、しかし鮮やかに描き出し
ていく。
4月2日(土)よりユーロスペース、
4月23日(土)より川崎市アートセンターほか全国順次公開
『悲しみのミルク』公式HP
http://www.kanashimino-milk.jp/
2011年4月6日水曜日
波路はるかに~伊高先生の船上便り(18)
長方形の枠組みの上部に「FUKUSHIMA」の大きな文字。中央に「怪獣中の怪獣ゴジラ」がものすごい形相で放射能を日本社会に浴びせて破壊をほしいままにしている。そんな世相漫画が外国で流れている。日本人なら、発想することはできても、書き表すことは難しい内容だろう。
ラ米研の開講日が5月になったため、私は当初のコーチン(インド西南部)下船・帰国という予定を変更し、横浜まで乗船し続けることになった。3月11日以降の日本の歴史的な悲劇の日々にアフリカ北部、地中海、紅海、インド洋に居た私は、おそらく終生、「そのとき東京(日本)に居なかった」ことに後ろめたい思いを抱き続けることだろう。だが、修羅場に居られなかった以上、「負い目を負う」だけにとどまることなく、この際、ピースボートによる世界一周航海を完成させ、世界観を新たにしてから帰国するのがよいと考えた。今航海が私にとって、最初で最後の世界一周の機会でもあるからだ。
トルコからインドまで乗船した船上講師仲間に、著名なMC(マスター・オブ・セレモニー、ラップミュージックを作り演じる人=ラッパー)のKダブシャイン(各務貢太)が居た。40代前半の日本人ナイスガイで、船客たち、とりわけ若い層を大いに湧かせた。私は、彼の東京での大地震体験報告を聴き、彼のラップの詩を「現代社会を告発する優れたジャーナリズム」だと捉えた。そこで「ラップとジャーナリズム」という1時間の講座を彼と共催し、音楽芸術、ジャーナリズム、破壊と創造、メディアの堕落、大震災・原発大事故後の状況にどう対応すべきか、などについて語り合った。熟年層と青年層の両方からかなりの反響があった。普段なかなか接触する機会のない職業や独特の生き方をしている人々との「合作」は、実りがあるものだ。
PBオセアニック号は昨日正午、インド南端とスリランカ南端を通過し、マラッカ海峡入り口に向かって真東に航行している。日本との時差も3時間に縮まっている。インド洋は依然穏やかで、波はほとんどない。波がないから、イルカが出てこない。
2011年4月5日、インド洋上にて
伊高浩昭
ラ米研の開講日が5月になったため、私は当初のコーチン(インド西南部)下船・帰国という予定を変更し、横浜まで乗船し続けることになった。3月11日以降の日本の歴史的な悲劇の日々にアフリカ北部、地中海、紅海、インド洋に居た私は、おそらく終生、「そのとき東京(日本)に居なかった」ことに後ろめたい思いを抱き続けることだろう。だが、修羅場に居られなかった以上、「負い目を負う」だけにとどまることなく、この際、ピースボートによる世界一周航海を完成させ、世界観を新たにしてから帰国するのがよいと考えた。今航海が私にとって、最初で最後の世界一周の機会でもあるからだ。
トルコからインドまで乗船した船上講師仲間に、著名なMC(マスター・オブ・セレモニー、ラップミュージックを作り演じる人=ラッパー)のKダブシャイン(各務貢太)が居た。40代前半の日本人ナイスガイで、船客たち、とりわけ若い層を大いに湧かせた。私は、彼の東京での大地震体験報告を聴き、彼のラップの詩を「現代社会を告発する優れたジャーナリズム」だと捉えた。そこで「ラップとジャーナリズム」という1時間の講座を彼と共催し、音楽芸術、ジャーナリズム、破壊と創造、メディアの堕落、大震災・原発大事故後の状況にどう対応すべきか、などについて語り合った。熟年層と青年層の両方からかなりの反響があった。普段なかなか接触する機会のない職業や独特の生き方をしている人々との「合作」は、実りがあるものだ。
PBオセアニック号は昨日正午、インド南端とスリランカ南端を通過し、マラッカ海峡入り口に向かって真東に航行している。日本との時差も3時間に縮まっている。インド洋は依然穏やかで、波はほとんどない。波がないから、イルカが出てこない。
2011年4月5日、インド洋上にて
伊高浩昭
2011年4月4日月曜日
波路はるかに~伊高先生の船上たより(17)
PBオセアニック号は4月3日、インド西南岸の港町コーチンに寄港した。港に降り立ち、インド人のたたずまいや、ココ椰子、ナツメ椰子、マンゴーや名も知らない巨木が生い茂る森、インド洋から切り離された、大河のような潟湖などを観て、悠久な大地であるのを実感した。景観と、湿気の多い気候は、メキシコ南部にも似ている。
街に出ると、その昔、ポルトガル人が建設した歴史の味麗しい聖フランシスコ教会の偉容が目に飛び込んできた。欧州・インド航路を切り拓いたヴァスコ・ダ・ガマが死ぬと、遺体はこのこの教会に安置された。だが14年後、遺言に基づいて遺体はリズボア(リスボン)に運ばれた。500余年前の世界史の現場にたたずんだ気持になり、しばし瞑想した。
海水と淡水が入り混じる潟湖では、800年も前に中国から伝わったという「大網漁法」があちこちで行なわれている。これを見て思い当たったのは、少年時代、小魚を獲るのに使っていた「四手網(よつであみ)」だ。これを川や池に仕掛けておいて引き上げると、口細、鮒、メダカ、ザリガニなどがよくかかった。この四手網を100倍くらい大きくした形の網を、巨大な木製のてこと錘を使って、湖底に沈めたり引け揚げたりする。一回の捕獲量は小さい。1日に6時間、計100回以上も大網を操って漁民らはエビ、ボラ、蟹などを獲り、別の方法で獲った蜆(しじみ)などとともに魚市場に卸して生計を立てていると聞いた。中国は明(みん)の時代にインド洋航路に本格的に進出した。おそらくそのころ、大網漁法もインドに伝えられたのだろう。高価な緑蟹(グリーンクラブ)の養殖池もあった。
村芝居やお神楽のような芸を観た。王子にむりやり嫁ぎたい野心的な娘が、強引に王子に関係を迫り、王子から刀であちこちを斬られてしまうという、二人芝居で、娘役も男だった。能、狂言の舞台にもかすかに似ていると思った。この芝居を観る前に食べた本場のカレー料理は、実にうまかった。御代わりしないではいられなかった。
街には、1568年に建立されたシナゴーグ(ユダヤ教寺院)があった。紀元2世紀頃、ローマ帝国がエルサレム(パレスティナ)を制圧すると、ユダヤ人の一部はインド洋に逃れた、そんなユダヤ人がコーチンに定住し、自分たちの寺院を建てたのだ。ローマ帝国、ポルトガル、イスラム教徒に迫害された史実が、展示されている絵で語られている。寺院の床に張り詰められている正方形の青いタイルは絵柄から中国製とすぐにわかる。ポルトガル人は中国の青タイルを自国に運んで、絵柄を変え、「アスレージョ」にしたらしい。
シナゴーグに近い「オランダ館」には、ヒンズー教の神々の生活を描いた300年まえの壁画群が残されている。鮮やかな色彩、官能的な姿、即j物的な表現が特色で、「生と性」を謳歌した教徒らの行き方が読み取れる。街のいくつかの店では、「カーマストラ」
の絵や本が売られていた。浮世絵の枕絵と比べ、男女の表情が明るく、絵柄も大らかだ。カースト制度を生んだヒンズー教だが、生々しい「生と性」の表現は洒落ている。
2011年4月3日
印度コーチンにて 伊高浩昭
街に出ると、その昔、ポルトガル人が建設した歴史の味麗しい聖フランシスコ教会の偉容が目に飛び込んできた。欧州・インド航路を切り拓いたヴァスコ・ダ・ガマが死ぬと、遺体はこのこの教会に安置された。だが14年後、遺言に基づいて遺体はリズボア(リスボン)に運ばれた。500余年前の世界史の現場にたたずんだ気持になり、しばし瞑想した。
海水と淡水が入り混じる潟湖では、800年も前に中国から伝わったという「大網漁法」があちこちで行なわれている。これを見て思い当たったのは、少年時代、小魚を獲るのに使っていた「四手網(よつであみ)」だ。これを川や池に仕掛けておいて引き上げると、口細、鮒、メダカ、ザリガニなどがよくかかった。この四手網を100倍くらい大きくした形の網を、巨大な木製のてこと錘を使って、湖底に沈めたり引け揚げたりする。一回の捕獲量は小さい。1日に6時間、計100回以上も大網を操って漁民らはエビ、ボラ、蟹などを獲り、別の方法で獲った蜆(しじみ)などとともに魚市場に卸して生計を立てていると聞いた。中国は明(みん)の時代にインド洋航路に本格的に進出した。おそらくそのころ、大網漁法もインドに伝えられたのだろう。高価な緑蟹(グリーンクラブ)の養殖池もあった。
村芝居やお神楽のような芸を観た。王子にむりやり嫁ぎたい野心的な娘が、強引に王子に関係を迫り、王子から刀であちこちを斬られてしまうという、二人芝居で、娘役も男だった。能、狂言の舞台にもかすかに似ていると思った。この芝居を観る前に食べた本場のカレー料理は、実にうまかった。御代わりしないではいられなかった。
街には、1568年に建立されたシナゴーグ(ユダヤ教寺院)があった。紀元2世紀頃、ローマ帝国がエルサレム(パレスティナ)を制圧すると、ユダヤ人の一部はインド洋に逃れた、そんなユダヤ人がコーチンに定住し、自分たちの寺院を建てたのだ。ローマ帝国、ポルトガル、イスラム教徒に迫害された史実が、展示されている絵で語られている。寺院の床に張り詰められている正方形の青いタイルは絵柄から中国製とすぐにわかる。ポルトガル人は中国の青タイルを自国に運んで、絵柄を変え、「アスレージョ」にしたらしい。
シナゴーグに近い「オランダ館」には、ヒンズー教の神々の生活を描いた300年まえの壁画群が残されている。鮮やかな色彩、官能的な姿、即j物的な表現が特色で、「生と性」を謳歌した教徒らの行き方が読み取れる。街のいくつかの店では、「カーマストラ」
の絵や本が売られていた。浮世絵の枕絵と比べ、男女の表情が明るく、絵柄も大らかだ。カースト制度を生んだヒンズー教だが、生々しい「生と性」の表現は洒落ている。
2011年4月3日
印度コーチンにて 伊高浩昭
波路はるかに~伊高先生の船上便り(16)
船は静かなインド洋を航行している。ここで、遣り残していた宿題を片付けねばならない。2月28日、カリブ海はトゥリニダードトバゴ(TT)の首都ポートオブスペインに寄港した折、ラ米研元受講生・安間美香さんのはからいで日本大使館を訪れ、岩田達明大使にインタビューした。その内容をお伝えする約束をしたまま果たしていなかった。モロッコ、リビア、エジプト、サウディアラビアのアラブ4カ国への寄港を前にして、準備で大童だったからだ。特にリビア情勢は風雲急を告げていて、連日、情報収集に追われていた。内戦状態になったため結局はトリポリ寄港は取り止めとなり、リビア市民との交流やローマ帝国時代の大遺跡訪問の夢も消えた。いま、海賊が出没する危険海域を離れ、取材メモをまとめる時間が出来た。以下は、質疑応答での大使発言の趣旨をまとめたもの。
TTは石油が出る豊かな国だが、富が偏在している。人口は130万人。自給自足が可能。教育も医療も無料だが、教育の普遍性が欠けている。貧困層には子供たちに教育を十分に施すと言う発想があまりなく、教育の機会均等はあるが普及性が不十分で、貧困家庭の子弟は社会上昇がしにくい。
米国文化の存在は映画をはじめ圧倒的。音楽はパン(スティールドラム)、ソカ、カリプソなどがあり、それが(特にアフリカ系の)アイデンティティー(認同)になっている。トバゴ島はアフリカ系住民が多く、美しい海浜が売り物の観光地。国の人口の40%を占めるインド系は経済面にひろく進出している。
宗教はヒンズー教、英国教会、新教、米国諸教会など。多民族社会が認同を形成する過程に依然ある。宗主国が西国から英国に移ったため、認同があいまい、ということが言える。華人系住民は人口の7ないし8%で、カナダなどから移ってきた者もいる。アフリカ系は政治、軍部、官僚、音楽などに進出している。概して国民性は控えめだが、この点は英国譲りか。教育を受けた者は、社会上昇のため勤勉だ。
独特な「TT英語」がある。たとえば「アイ・アム」と言うべきところを、「アイ・イズ」と言ったりする。「アスク(訊ねる)」を「アクス」と言うこともある。パトワ語も混ざりこんでいる。
最大の社会問題は治安。石油は出続けているが、ブームは過去のものだ。景気が翳っていたところにコロンビアのコカインが隣国ベネズエラ経由で入ってきた。麻薬の大市場・米国への中継地になったのだ。失業率は8%程度。凶悪犯罪(02年から10年まで3335人殺害さる)も近年目立っており、絞首刑復活について国会が審議している。9月から1月までの雨季には洪水がある。
外交は(全方位外交ということを考えれば)視野は限られている。米国第一主義。次は英国、欧州、インド、カナダというところ。中国のプレゼンス(存在)はまだまだ。TTはかつてカリコム(カリブ共同体・共同市場)の盟主の座をジャマイカと争っていたが、今日ではベネズエラとキューバが主導するALBA(米州ボリバリアーナ同盟)が圧倒的な存在感を発揮している。TTのメディアはベネズエラのことをほとんど報じない。(海底の天然ガス田開発で、ベネズエラに譲歩して、交渉をまとめた。)
近隣では、カリブ海の英連邦系島嶼国家群のなかでは、バルバドスが民度が高い。英国流だ。自立できる。グレナダ、サンヴィセンテグラナディーンとは一定の関係がある。ALBA加盟の島嶼3カ国については、冷ややかに見ている。ALBAの援助能力が強いため「仕方ない」と受け止めているようだ。
在留邦人は60人ぐらい。年間訪問者は500人ないし600人。(この日ピースボート乗船の750人が一度に訪問し、今年の訪問者数が例年の倍以上となるのは疑いない。)日本とTTは互いに相手国を知らなさすぎる。日本企業にとっては、TTがカリコムへの玄関口だ。富士通が進出企業としては存在感がある。発電面は日本企業が4分の1を占有しているが、今後、発電以外でも油化、廃棄物処理などの分野が投資先としては有望だろう。
(今夏、日本の大型経済使節団がTTを訪問する可能性があったが、東日本大地震・原発事故の影響で、見送られたという。)
2011年4月1日
インド洋上にて 伊高浩昭
(今夏、日本の大型経済使節団がTTを訪問する可能性があったが、東日本大地震・原発事故の影響で、見送られたという。)
2011年4月1日 インド洋上にて 伊高浩昭
TTは石油が出る豊かな国だが、富が偏在している。人口は130万人。自給自足が可能。教育も医療も無料だが、教育の普遍性が欠けている。貧困層には子供たちに教育を十分に施すと言う発想があまりなく、教育の機会均等はあるが普及性が不十分で、貧困家庭の子弟は社会上昇がしにくい。
米国文化の存在は映画をはじめ圧倒的。音楽はパン(スティールドラム)、ソカ、カリプソなどがあり、それが(特にアフリカ系の)アイデンティティー(認同)になっている。トバゴ島はアフリカ系住民が多く、美しい海浜が売り物の観光地。国の人口の40%を占めるインド系は経済面にひろく進出している。
宗教はヒンズー教、英国教会、新教、米国諸教会など。多民族社会が認同を形成する過程に依然ある。宗主国が西国から英国に移ったため、認同があいまい、ということが言える。華人系住民は人口の7ないし8%で、カナダなどから移ってきた者もいる。アフリカ系は政治、軍部、官僚、音楽などに進出している。概して国民性は控えめだが、この点は英国譲りか。教育を受けた者は、社会上昇のため勤勉だ。
独特な「TT英語」がある。たとえば「アイ・アム」と言うべきところを、「アイ・イズ」と言ったりする。「アスク(訊ねる)」を「アクス」と言うこともある。パトワ語も混ざりこんでいる。
最大の社会問題は治安。石油は出続けているが、ブームは過去のものだ。景気が翳っていたところにコロンビアのコカインが隣国ベネズエラ経由で入ってきた。麻薬の大市場・米国への中継地になったのだ。失業率は8%程度。凶悪犯罪(02年から10年まで3335人殺害さる)も近年目立っており、絞首刑復活について国会が審議している。9月から1月までの雨季には洪水がある。
外交は(全方位外交ということを考えれば)視野は限られている。米国第一主義。次は英国、欧州、インド、カナダというところ。中国のプレゼンス(存在)はまだまだ。TTはかつてカリコム(カリブ共同体・共同市場)の盟主の座をジャマイカと争っていたが、今日ではベネズエラとキューバが主導するALBA(米州ボリバリアーナ同盟)が圧倒的な存在感を発揮している。TTのメディアはベネズエラのことをほとんど報じない。(海底の天然ガス田開発で、ベネズエラに譲歩して、交渉をまとめた。)
近隣では、カリブ海の英連邦系島嶼国家群のなかでは、バルバドスが民度が高い。英国流だ。自立できる。グレナダ、サンヴィセンテグラナディーンとは一定の関係がある。ALBA加盟の島嶼3カ国については、冷ややかに見ている。ALBAの援助能力が強いため「仕方ない」と受け止めているようだ。
在留邦人は60人ぐらい。年間訪問者は500人ないし600人。(この日ピースボート乗船の750人が一度に訪問し、今年の訪問者数が例年の倍以上となるのは疑いない。)日本とTTは互いに相手国を知らなさすぎる。日本企業にとっては、TTがカリコムへの玄関口だ。富士通が進出企業としては存在感がある。発電面は日本企業が4分の1を占有しているが、今後、発電以外でも油化、廃棄物処理などの分野が投資先としては有望だろう。
(今夏、日本の大型経済使節団がTTを訪問する可能性があったが、東日本大地震・原発事故の影響で、見送られたという。)
2011年4月1日
インド洋上にて 伊高浩昭
(今夏、日本の大型経済使節団がTTを訪問する可能性があったが、東日本大地震・原発事故の影響で、見送られたという。)
2011年4月1日 インド洋上にて 伊高浩昭
2011年4月1日金曜日
波路はるかに~伊高先生の船上便り(15)
PBオセアニック号は3月30日、アデン湾からインド洋本洋に入った。1800時過ぎ、警護の役割を終えた海上自衛隊の駆逐艦2隻は、ピースボートを含め計9隻の護衛対象の船団を離れた。船団も解散した。船はインド洋中北部を横断し、印度のコーチンに向かっている。
3月29日夕刻には、明らかに海賊船と見られる高速船外機付きの小舟が自衛艦の周囲を、出方を確かめるように旋回し、自衛艦と搭載ヘリコプターによる追跡を避け、去っていった。乗客の何人かが目撃し、小舟を望遠レンズで撮影した。後でこの船影の写真を見せてもらったが、貴重な現場写真だ。自衛艦が数多くの証拠写真を撮影しているのは疑いない。
インド洋本洋は湖水のように静かで、波がない。本船が立てる波にイルカたちが盛んに波乗りを楽しんでいた。31日の海も静かで波がない。何処の海にせよ、こんな波のないおとなしい大海原に遭遇するのは稀だ。雲ひとつない青空は、夜は星の海になる。横浜帰着まで2週間あまりとなった。2011年3月31日
インド洋上にて 伊高浩昭
3月29日夕刻には、明らかに海賊船と見られる高速船外機付きの小舟が自衛艦の周囲を、出方を確かめるように旋回し、自衛艦と搭載ヘリコプターによる追跡を避け、去っていった。乗客の何人かが目撃し、小舟を望遠レンズで撮影した。後でこの船影の写真を見せてもらったが、貴重な現場写真だ。自衛艦が数多くの証拠写真を撮影しているのは疑いない。
インド洋本洋は湖水のように静かで、波がない。本船が立てる波にイルカたちが盛んに波乗りを楽しんでいた。31日の海も静かで波がない。何処の海にせよ、こんな波のないおとなしい大海原に遭遇するのは稀だ。雲ひとつない青空は、夜は星の海になる。横浜帰着まで2週間あまりとなった。2011年3月31日
インド洋上にて 伊高浩昭
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