2011年6月4日土曜日

ネルーダの死因は癌か、それとも毒殺か?

   チリのノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダ(1904~73)の死因解明調査が実施されることになった。法廷は6月2日チリ共産党の提訴を受けて、法医学当局に必要な措置をとるよう命じた。ネルーダは、バルパライソ南方の太平洋岸にあるネルーダの邸宅「イズラ・ネグラ」の庭に、妻マティルデと並んで眠っているが、死因調査には遺体の点検が不可欠であり、遺体が発掘される見通しとなった。

   なぜこのようなことになったかといえば、法廷が5月、サルバドール・アジェンデ大統領の死因調査を命じ、その遺体が発掘され、調査過程に入ったことから、「ネルーダの死因調査も」ということになったのだ。アジェンデは1973年9月11日のピノチェーらによる軍事クーデターのさなか、炎上する政庁内で死んでいった。自殺説が定着しているが、いま敢えて①自殺②銃による自殺を試みたが死にきれずぶ部下が止めの1発を頭部に撃ち込んだ③他殺――のいずれが死因か、慎重に調査している。

   この動きを受けて、ネルーダの側近で運転手も兼ねていた人物が、メキシコ誌「プロセソ」に、「ネルーダは首都サンティアゴにあるサンタマリーア診療所で毒物を注射されて殺害された疑いが濃厚」と語った。当時のチリ駐在のメキシコ大使も、「メキシコへの亡命を促すため診療所でネルーダに会ったが、彼は元気で病室内を歩いていた。その翌日ネルーダは死んだ」と証言した。従来ネルーダは「前立腺癌の悪化」が死因とされてきたが、アジェンデの死の直後の1973年9月23日に死んだのが「あまりにも唐突で不自然だ」と元側近や本大使は主張している。このためネルーダが所属していた共産党が5月末に死因調査を求めて訴えたのだった。

   背景には、1982年に同じサンタマリーア診療所で、エドゥアルド・フレイ元大統領が毒殺された事件が先に発覚した事実がある。フレイはアジェンデの前の大統領で、ピノチェー軍政に反対していた。ネルーダの側近が言うには、ピノチェーはネルーダが生きている限り、反ピノチェーの象徴的存在になりうるとして、ネルーダを毒殺したとみている。もし毒殺が証明されれば、チリ現代史は書き変えられることになる。

   ところで私は、本文を「読書日記」の一環として書くつもりだった。私はネルーダが大好きで、ピースボートに乗れば必ず、朗読会を催す。ことし3月にも船上でそれをしたが、そのとき中心になって読んでくれたのは、新劇女優の入江杏子(本名・入江久恵)さんだった。その入江さんから著書『檀一雄の光と影』(1999年、文芸春秋社)を署名入りでいただいた。それを読んで驚いた。彼女こそ、檀一雄の話題作『火宅の人』(1975年新潮社)のヒロイン「矢島恵子」のモデルだったのだ!

   船内で4月には、昔のペルシャの詩人オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の全編朗読会を開いたが、この時も入江さんが中心だった。ことし84歳の高齢だが、さすが女優である。船上での光栄な出会いだった。さっそく『火宅の人』を36年ぶりに読み直そうと思ったが、探しても見つからない。見つかり次第、必ず読む。

(2011年6月4日)  伊高浩昭