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2009年1月23日金曜日

フィデル・カストロは健在だった!

伊高浩昭(ジャーナリスト)

 ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領によって1月11日、〈重態説〉が流されたキューバ革命の精神的指導者フィデル・カストロ共産党第1書記(82歳)は21日、キューバを訪問していたアルゼンチンのクリスティーナ・フェルナンデス大統領と40分間会談し、自ら〈重態説〉を否定した。

 フィデルは翌22日、「省察」と題したコラムシリーズを38日ぶりに再開し、20日就任したバラク・オバマ米大統領について、「1959年1月のキューバ革命勝利以来11人目の米大統領が就任した。オバマの誠実さは疑いないが、過去の大統領たちの域を出ていない」と述べて、オバマとヒラリー・クリントン国務長官が決めるキューバ政策に警戒心を示した。

 だが、このコラムの重要性は後段にある。フィデルは、「省察」を久々に書いたのを踏まえて、「〈省察〉執筆を減らすことにした。党と政府の同志たちを煩わせないようにするためだ。私は今は元気だが、同志たちの誰も今後、〈省察〉や私の重態・死に影響されてはならない」と書いているのだ。

 さらに「半世紀にわたって私が行なった演説や書いた論文などを点検している。私は情報を受け取り情勢について静かに思考する特権を長い間享受してきた。だが、オバマの任期4年が終わるまでこの特権を享受し続けることはないと思う」と記している。

 フィデルは明らかに〈遠くない死〉を覚悟している。「重態」という言葉を使ったのも、チャベスが指摘したとおり、つい最近まで容態が悪化していたからかもしれない。実権を握る実弟ラウール・カストロ国家評議会議長(元首兼首相、77歳)もフィデルも、すでに実質的に〈フィデル後〉の時代に入っている。今回の〈重態説〉騒ぎは、期せずしてフィデルの本音を引き出すのに貢献することになった。

2008年9月24日水曜日

ホンジュラス便り

本日もラテンアメリカ研究所・ホンジュラス支局長からのお便りをお届けします。ここでもアメリカの大統領選にも関連した記事がありますね。

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 ここ数日の間に、ホンジュラスのおめでたいイベントが続きました。

 まずはこどもの日。日本でこどもの日といえば5月5日ですが、こちらでは9月10日です。こどもたちにとっては残念なことに、ホンジュラスのこどもの日は祭日ではありません(日本に生まれてよかった!)。でも学校ではお祝いの行事があり、もちろん家族でもお祝いをします。事務所のお父さん、お母さんたちも、今年は何をしてあげようか・・・とかわいいこどもたちの喜ぶようなお祝いを精一杯考えたようです。なかには「ウチではケーキが出るよ!」と友人を招待し、慌ててお母さんにケーキを買いに走らせるというチビッコ策士もいたとか・・・。お父さん、苦笑しながら話してくれました。

 そして同じ9月10日に、次期ワールドカップサッカーの予選試合となる「ホンジュラスv.s.ジャマイカ」が行われました。この日は仕事の出先で関係者が打ち上げのバーベキューをすることになっていたのですが、ホンジュラス人を誘っても「今日は大事な日だから」と断られたそうです。そういえば、一月ほど前の試合の日も、職場には有志が国旗を飾っていて、試合時間が近づくと潮が引いたようにオフィスから人がいなくなっていました。どちらかといえばラテンらしくない控えめなホンジュラス人も、サッカーとなるとラテンの地が騒き出すようです。それもワールドカップにかける情熱はひときわです。オリンピックにもホンジュラス代表は出場しましたが、これほどの盛り上がりは見られませんでした(というよりほとんど黙殺でした)。やはりサッカーのナンバーワンを決めるのは、ワールドカップなのですね。幸い、この日は2-0でホンジュラスが勝ち、こどもたちも大満足だったことでしょう。

 さて、それから5日後の9月15日は、日本では敬老の日ですが、ホンジュラスでは独立記念日です。この日はもちろん国民の休日となっています。祝日はこの日だけですが、実際には数日間のイベントが行われます。独立記念の恒例行事はパレードです。お揃いのユニフォームに身を包み、太鼓やシンバル、笛を携えたマーチングバンドやダンスチームが大通りを練り歩きます。何事もきっちり揃えることの苦手なホンジュラスにしてはまぁがんばってるかなーという程度の緩やかなまとまりの行進です。寸分狂わず統制の取れたバンドよりも、あっち向いたりこっち向いたりしている行進の方が休日の朝に似合うという気がするのは、私がちょっとホンジュラス化してしまったからでしょうか?

 そんな独立記念日の時期に穏やかでないニュースがホンジュラスを騒がせています。中南米の反米化は近頃顕著にそして広範囲に及んでいますが、先日ボリビア、ベネズエラがそれぞれの米国大使の出国を求めるとともに駐米大使を引き上げさせる決断を下しました。この動きを受けて、ホンジュラスはボリビア、ベネズエラの決定に賛同を示し、ちょうど交代時期にあった在ホンジュラス米国大使の信任状提出式を中止したのです。これまで親米路線をとっていたホンジュラスですが、ALBAへの加盟、そして今回の信任状拒否と、セラヤ大統領は今、反米に舵を取ろうとしています。とはいえ、ホンジュラスは歴史的に見ても米国の強い影響を受けているので、今回の大統領のコメントも、将来的には新米国大使の受入を認める可能性も含ませた玉虫色の発言となっていました。

 私は政治には全くの門外漢ですし、国家としての米国にはしばしば嫌悪感さえ覚えるたちなので、決して米国への追従をよしとするわけではありませんが、こんなどっちつかずの日和見政治は、結局ホンジュラスに悪影響こそあれ、よくは転ばないだろうという気がします。ボリビアやベネズエラが米国に対してここまで強気の姿勢を取れるのは、何と言っても潤沢な石油やガス資源によるところが大きいはず。そこがホンジュラスとの決定的な違いで、資源という武器を十分に持たないホンジュラスが同じことをすれば、たちまち息の根が止まってしまうことは火を見るよりも明らかです。
どうも、ホンジュラスは「ノアの箱舟」ではなく「セラヤ大統領の泥舟」に乗っているような気がしてなりません。泥舟の運命やいかに・・・。

2008年9月17日水曜日

ホンジュラス便り


サシガメの写真 JICAシャーガス病対策のページより引用
http://www.jica.go.jp/jicapark/frontier/0507/04.html

ホンジュラスには立教大学ラテンアメリカ研究所ホンジュラス支局があります。
今日はそのホンジュラス支局長からの報告です。

いつも元気な支局長ですが、いろいろな危険と隣合わせでがんばっているのですね。
東京からエールを送ります。

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気がつけばもう9月、久しぶりのホンジュラス便りです。
今回はちょっと恐ろしい感染症のお話です。

同僚から、出勤前に突然の電話。
彼女は前日、どうも調子が悪いと言いながら帰ったのですが、「熱が39度まで上がってしまった」とのこと。
薬を飲んでも切れる頃にはまた上がる状態で、そのうちに頭痛が始まり、身体の節々にも痛みが現れました。
食べることもできなくなり、病院で検査をしたところ、予想は的中。
 「デング熱」でした。

 日本で馴染みのないこのデング熱は、蚊を媒介とする感染症で、デング熱ウィルスを保有するネッタイシマカやヒトスジシマカに刺されることによって起こります。
 ホンジュラスはデング熱の発生地域で、雨の多いこの時期は蚊が繁殖しやすいため、発症率が高くなるのですが、今年は特に大流行しているようです。
 ここホンジュラスではマラリアに罹ることもありますが、都市部で発生しやすいデング熱のほうが我々にとっては脅威です。

 予防法は蚊に刺されないことしかないのですが、こちらの蚊ときたら服の上からでも刺すくらい食欲旺盛(?)ですから、デング熱に罹るかどうかは運でしかありません。
 デング熱の症状は、人によって、またその時の体調によって大きく異なり、全く気づかないうちに済む人もいれば、免疫力が落ちて回復までに何週間もかかる場合もあります。
 治療といっても特効薬はなく、対処療法しかありません。
 それでもこの同僚の場合は、不幸中の幸いで、いわゆる普通のデング熱でしたが、これがデング出血熱だと、死に至る可能性もあります。
 いつも元気な同僚の弱りきった声を電話口で聞きながら、改めてデング熱の怖さを感じ、また、あんな小さな蚊が大きな人間の体にこれほどダメージを与えることに驚きました。

 日本で耳にしない感染症には、デング熱のほかにシャーガス病が挙げられます。
 シャーガス病は中南米に見られる寄生虫病で、体長1.5~2センチくらいのサシガメを媒介して起こります。土壁や藁葺き屋根の家を好み、夜間に活発に動いて吸血します。デングやマラリアと比べてシャーガス病の恐ろしいところは、自覚症状なく慢性期に移行することが多く、感染後10年以上経過してから心臓や循環器系、消化器系に影響が現れ、そうなると治療法がなく死を迎えるという点です。
 主に貧困層の疾患率が高く、シャーガス病の知識がないために感染が拡大するという問題を抱えています。

ホンジュラスでは2種類のサシガメが生息しており、都市部に棲むタイプのサシガメは、私の職場や同僚の車の中でも見つかっているので、これも他人事では済まされません。帰国時にはきちんとシャーガス病検査をしなければ、と思っています。

先日、シャーガス病プロジェクト関係者からホンモノのサシガメを埋め込んだキーホルダー(啓発活動グッズ)をもらったので、記念に持って帰ります。興味のある方にはお見せしますよ!

ラテンアメリカ研究所ホンジュラス支局長より

2008年8月14日木曜日

ボリビア情勢(伊高先生からのお便り)

伊高先生からは前回で最後のお便りの予定でしたが、番外編としてもうひとつお便りが届きました。

秋からの授業が楽しみですね。

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ボリビア情勢について短く寄稿します。これで全4本となり、打ち止めです。

ボリビアからのインターネット情報によると、同国で8月10日実施された、大統領と9州全知事の罷免の是非を問う国民投票で、エボ・モラレス大統領、および同大統領の新憲法制定政策に反対するサンタクルス州など諸州の知事は、そろって信任された。

その結果、政情は、大統領支持派と反対派の力関係が国民投票前とほとんど変わらないまま、緊張状態が続く見通しとなった。

大統領が次に目指すのは、農地改革の前段階としての大土地所有制の規模(面積)を決定する国民投票と、決定されたその規模を盛り込んだ新憲法の承認の是非を問う国民投票だが、賛否両派の力関係が拮抗しつつあるため、成り行きを予測するのは難しい。

問題の本質は、「コロンブス到着以来516年」.の間に失われた先住民族の権利の「奪回」を巡る歴史的な闘争にある。

過去を奪われた先住民族が、過去を復活させて未来に向かうために、先住民族中心の新しいボリビアを建国するというのが、モラレスの思想だ。

新憲法が公布されれば、ボリビアにとどまらず、ラ米全域、さらには植民地支配に苦しんだ世界各地の国々に影響が及ぶはずだ。

それだけに、既得利権にしがみつきたい伝統的支配層は、「旧秩序」を死守するため必死なのだ。

ボリビア情勢は、このような世界史的意味をもつ。じっくりとフォローしていきたい。


080813 
米国沖を航行中のPB船上にて

サルバドール

2008年8月13日水曜日

伊高先生航海日誌

伊高先生よりのお手紙です。

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船上からの最終報告です。

メヒコ太平洋岸のアカプルコに8日、上陸jしました。

41年前に最初に来たころ、何度も砂に埋めた思い出が、紫の霞がかかって甘酸っぱくも、おぼろげに甦ります。しかし、別離と忘却が過去を軽くし、いまは感傷はありません。だから生きていけるのでしょう。

10日には、船の給水のため、メヒコのハリスコ州プエルトバジャルタに数時間停泊し、浜辺を散策し、大型でうまいマルガリータを呑みました。ここも34、5年前に来ましたが、特に感慨はありませんでした。

船は、バンクーバーに向けて、間もなく出港です。

これから小一週間、いろいろな講座を開きます。パブロ・ネル-ダとガブリエラ・ミストゥラルの詩の朗読や、メヒコ情勢、チェ・ゲバーラの愛と人生、ロシア民謡DJなどをやります。

17日には東京に戻ります。そして実りの秋に備えます。

9月下旬の再会を楽しみにしています。そしてレポートも。

ではまた、080810
プエルトバジャルタにて、サルバドール

2008年8月8日金曜日

ラテンアメリカ航行中(伊高先生より)

伊高先生よりお便りが届きました。
秋からの授業が楽しみですね。私も受講したい・・・
¡Qué envidia!

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船は、米フロリダ州タンパ港を7月末に出て、メキシコ湾を南西に走り、クーバ西端と墨ユカタン半島の間を通ってカリブ海に入りました。

中米沿岸を南下し、8月1日パナマ運河カリブ海側のコロン市サンクリストバル港に入港しました。

パナマ先住民族7言語集団のなかのエンベレ人の集落を、熱帯雨林のなかを流れるガトゥン川を伝って訪れ、数時間取材しました。

1年半前まで、コロンビア国境地帯のダリエン地峡に住んでいたのですが、コロンビア領内から侵入してきた極右準軍部隊か左翼ゲリラか判然としない勢力に攻撃されて、パナマ中央部に移住してきたものです。 エンベレ人は、男女とも植物の汁で刺青をしますが、数週間で自然に落ちてしまう種類の刺青で、いわば健全なものです。いずれ、この訪問記は原稿にします。

パナマ運河は5回目の通行でした。運河第3水路の建設現場は見ることができませんでした。パナマ運河開通100周年の2014年に第3水路は開通するとのことですが、保証の限りではありません。

運河は太平洋側出口のバルボア港の真上で、汎米道路が走るラス・アメリカス橋と交差します。この地点を「世界の十字路」と呼びますが、その辺りから左手彼方にはパナマ市が見えます。来るたびにスカイラインが高く幅広く拡大しています。建設景気で沸いているとのことですが、新自由主義的路線のなせる業でしょう。

その後、グアテマラのケッツァル港に5、6両日停泊しました。

マヤ民族とラディーノ(混血)の女性達が仲良く「女性の地位向上」に努めているテクパン市を訪問し、マヤ人宅に泊まって取材しました。これまた長い記事にまとめます。

受講生のM記者はきょう6日、成田を経ったはずです。メヒコ留学時代の幕開けですが、同君の墨国滞在が実り多きものとなるのを祈ります。

ではまた、お元気で、080806 サルバドール

2008年7月30日水曜日

航海日誌(伊高先生より)

夏休み報告が届きました。
まずは、ラテ研の受講生をなつかしく思い出しつつ、休みを満喫している様子の伊高先生から。
先生のご活躍と楽しそうな様子が伝わってきます。

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ラ米研「現代ラ米情勢」講座受講生の皆さん、

メキシコ湾航行中のピースボート船上から、このお便りを差し上げます。投稿という形ですけれど。

今回は8月13日にニューヨークに行きましたが、15日昼過ぎ、マンハッタンの第6大通りで、(同日夜、ヤンキースタディアムで開かれた)大リーグ・オールスター(全星)戦の選手たちがオープンカーで行進するのに出くわし、イチローや福留に声援を送り、彼らも気づいて挨拶を送り返してきました。

成田から乗った日航機でNHK野球解説者・与田剛(元中日投手)と乗り合わせ、NY空港で会話しましたが、彼はもちろん全星戦の解説のために到着したわけです。

今回の旅は大リーグに縁があるなと思っていましたが、NYマンハッタンからブルックリンへと移動し、さらにフロリダ半島西岸のタンパに1週間滞在し、タンパ湾の向こう岸のセントピーターズバーグで、そこを本拠地とするタンパベイ・レイズの公式戦をトロピカーナ球場に行って観戦しました。

元スワローズの岩村2塁手にも外野席から声援を送り、気づいた彼とエールを交換しました。遠い日の野球少年にしばし戻った2週間の米国滞在でした。

船はいま、メヒコ湾を南下しており、やがてクーバ西端とユカタン半島の間からカリブ海に入り、8月1日にパナマ運河カリブ海側のサンクリストバルに入港します。

モラのデザイナーでクナ民族の親友ワゴ君と一緒で、愉快にやっています。

エベレスト山に女性で初登頂した田部井淳子さんも、船内講師としての同僚で、アンディーナというラ米名を彼女につけたところ、すっかり定着しています。

酔狂な船客が、浅草神谷バーの電気ブランを持参してきたというので、これからアンディーナも交えて海を眺めつつ乾杯です。

次回はラ米の話をいたしましょう。

アスタ・プロント、080729午後3時45分
サルバドール

2008年7月25日金曜日

サンパウロ便り


サンパウロからの写真

昨年までポルトガル語上級とラテンアメリカ論IIを受講していた鈴木さんからお便りが届きました。
お手紙からブラジルらしさ、そして、充実して毎日を送っている様子がわかりますね。元気な様子になんだか心があたたかくなりました。

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こんにちは。

現在、サンパウロ大学の人文学部に留学に来ています(来年の1月まで滞在予定です)

日本では早稲田の社会科学研究科(修士)に在籍していて、80年代以降のブラジルにおける雇用や労働状況の変化について研究しています。

今年は移民100周年記念ということもあり、日本に対する注目も高まっていて各地でイベントやセレモニーが行われています。 そこで感じるのは、やはり私を含めた日本人がブラジルで好意的に受け入れられるのは、移民でこられた方々の功績のおかげであるということです。それに対してもちろん敬服します。

しかし、たとえば日本や日本人に対するブラジル人のイメージがひと昔前のもので止まっているな、とも感じます。「日本から留学にきた」というと、「移民研究できたのか?」、と言われることが9割です。 ブラジルと日本がこれから新しい関係を気づいていくためにも、過去の功績に感謝しつつ、また新しい視点で物事を見つめたほうがいいな、と今日この頃感じています!


・・とまあ、ちょっとまじめなことはこのぐらいにして(笑)、ブラジル人の明るさといい加減さと機転の良さはやっぱり生活していてすがすがしいです!やたら食べるし、しゃべるし、ひとの噂話が大好きで時々どっと疲れることもありますが、それぞれがマイペースで、going mywayで人生の楽しみ方そのものを知っているなあと感じます。

ブラジルにきてはや4ヶ月が経ちましたが、充実した日々を送っています。

また何かあったら報告しますね!
乱文、長文、失礼しました!
それでは!

鈴木志帆
元ラテ研受講生
早稲田大学大学院社会科学研究科修士2年
2008年度サンパウロ大学人文学部留学生

2008年6月13日金曜日

ホンジュラス便り

ホンジュラスの元ラテ研職員Wさんからお便りが届きました。

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 今回のテーマはカーニバルです!

 ホンジュラスの北部、カリブ海岸沿いのラ・セイバ市で、毎年恒例のカーニバルが開催されました。ラ・セイバ市のカーニバルは中米有数のイベントで、パレードは1日だけですが、その1ヶ月ほど前から周辺の町や村で地元の“Carnavalito”(小さなカーニバル)が開かれ、街全体がお祭ムードに包まれます。
 この国際的行事に、日本のボランティアが文化紹介をする伝統が20年も続いています。そしてヒマそうに見えたのか(?)私が調整役の一人に指名され、約3ヶ月の準備期間を経て、80人近い日本軍団とともにラ・セイバに乗り込みました。

 5月のホンジュラスは一年を通じて最も暑い時期です。おりしも今年は雨季の到来が遅く、普段カラリとした気候の首都テグシガルパでさえ粘り気のある暑さが肌にまとわりついていました。カリブからの海風を受けるラ・セイバは、普段からかなり高温多湿な地域ですから覚悟はしていましたが、車を降りた途端にすべてを溶かすような気だるい熱気が全身を包み、立っているだけで顔から背中から汗が流れていきました。

 日本チームの出番は、前夜祭のステージと当日のパレードです。
 前夜祭では歌に踊りにと2時間のステージを盛りだくさんのプログラムで飾りました。和太鼓や琴といった和楽器演奏、ソーラン節やエイサー、剣道に合気道の実演、コメディーチックな浦島太郎の上演まで多岐に渡りました。もちろんボランティア活動の紹介も欠かせません。今年は日本とホンジュラスの融合をキーワードに、ホンジュラスの歌や踊りも取り入れて、観客の注目を集めていました。ボランティアにはもともと芸達者が多いうえに、お互いに持っている芸を教えあうので、ますます芸の道に磨きがかかっていきます。「本業」が何か時々わからなくなってしまうほどです。
 そしていよいよパレード当日。カーニバルといえばリオデジャネイロが世界的に有名ですが、ラ・セイバのカーニバルもリオと同様に各団体が山車を作り、ダンサーはお揃いの衣装で大通りを練り歩きます。

 先頭はハーレーダビットソンの集団でした。何十台ものきらびやかなバイクが誇らしげにエンジンを吹かせます。そして次にはレトロな馬たち。まだほんの少年もまるで自分の手足のように馬を乗りこなし、颯爽と駆け抜けていきます。

今年の日本チームの目玉は、お神輿でした。木工を専門とするボランティアが何ヶ月もかけて作り上げた本格的なお神輿です。重さにして200キロ以上。首都から6時間も車で運ぶ苦労もさることながら、これだけの重さをこの暑さの中で果たして担げるのかと気が気ではありませんでした。しかしいざ始まってみればそれは取り越し苦労だったようで、ラ・セイバで活動する日本人ボランティアの呼びかけにより多くのホンジュラス人サポーターが駆けつけてくれて、見事にお神輿が担ぎ上げられ、ワッショイワッショイと大通りを練り歩きました。これこそホンジュラスと日本の融合という感動的なシーンでした。

いやはや、それにしても暑かった!!
1年分の汗をかき、不要なダイエットまでしてしまいました。(完)

2008年6月6日金曜日

野谷文昭先生からのお便り


シンポジウム『世界の文学とラテンアメリカ』
現代文芸論研究室のHPはこちら

ラテンアメリカ講座に関するアンケートを行うと必ず「野谷先生の授業が聴きたい」という希望があります。今日は元ラテ研所長の野谷先生からのお誘いです。

今年の4月から東京大学大学院でラテンアメリカ文学を講じていらっしゃる野谷先生の所属する現代文芸論研究室が主催するシンポジウムです。

シンポジウム:『世界の文学とラテンアメリカ』
日時:2008年6月29日(日)15時~17時30分
場所:法文2号館1番大教室(東大本郷キャンパス)
演者:桜庭 一樹(作家)、野谷文昭(ラテンアメリカ文学)、柴田元幸(アメリカ文学)、沼野充義(ロシア東欧文学)

始まってからだと教室に入れなくなるかもしれない・・とのことで、あえてあまり広報はしないそうです。このブログへの掲載はラテ研の受講生のために野谷先生に特別にご許可いただています。

2008年6月2日月曜日

アルゼンチン便り

ラテンアメリカ研究所の元職員Wさんよりお手紙が届きました。
今回はアルゼンチンからのお便りです。

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5月初旬に休暇を取って日本のちょうど裏側のアルゼンチンを訪れました。

アルゼンチンは私にとって一番かかわりが深く、今や第二の故郷とさえ思っている国です。
最後に訪問したのはほぼ10年前。ほんのちょっとご無沙汰しているつもりでしたが、気がつけば一昔前になっていました。

首都のブエノス・アイレス到着は早朝6時。ちょうど日本と季節が逆なので、アルゼンチンは秋が深まってきていました。まだ暗闇のなかで、吐く息が白く浮かびあがります。

久しぶりの空港は見違えるほど美しくなり、空港から中心部に向かう道の状態のよさや広さ、ずらりと並ぶ料金所、マンションの多さに圧倒されました。10年近い時の流れに加えて、ホンジュラスに1年ちょっと住んでいるうちに自分の物差しがホンジュラス基準になっていたようで、大都会ブエノス・アイレスに「別世界みたい・・・」とびっくりしてしまいました。

街を歩いていても、おしゃれなカフェがいたるところにあり、道行く人々も洗練された着こなしで颯爽と歩いています。物も豊かで、汽車、地下鉄、バス網も発達しています(やっぱり私が相当「ホンジュラス化」していますね)。

滞在した1週間、毎日のように旧友と再会し、この10年の空白を埋めるべくお互いのこれまでの出来事を語り合いました。

かつてのプレイボーイは3児の父として奮闘中、浮いた噂のなかった堅物もいよいよ婚約、そうかと思えばお世話になった人が脳卒中で亡くなったり、昔の教え子が若くして病気で帰らぬ人になっていました。一方で、ご存命かどうか気がかりだった方が、電話口からお元気そうな声を聞かせてくれて、ほっと一安心する場面もありました。

アルゼンチンは2001年末に経済危機を迎えました。私がかつて滞在していた頃は1ドル=1ペソの固定相場だったのですが、実際にはペソはそれほど強くなかったため、そのしわ寄せがだんだん広がり、抑えきれなくなりました。ついに破綻となった時に、政府が銀行預金を凍結したため、コツコツと貯めたお金を引き出せなくなった国民は、大混乱に陥りました。特に、長年かけて貯めた貯金で老後を過ごそうと思っていたお年よりの精神的ダメージが大きく、心の病にかかったり、命を落とした人も少なくなかったそうです。

私が今回会った知人の中にも、経済危機後の激しいストレスで家族を失った方がいました。まだ働き盛りで、お子さんは育ち盛りでした。ご本人も悔しかったでしょうし、経済危機の最中に大黒柱を失った家族はどれほど大変だっただろうかと、想像するだけでも胸が痛みます。また、この時期たくさんの人が職を失いましたが、友人の中には結婚して子どもが授かった途端に勤務先から解雇を命じられ、途方に暮れた人もいました。

けれども、それ以上に驚いたのは、そんな苦労を重ねた人たちが昔と全く変わらない笑顔で私を出迎えてくれ、つらかった出来事を淡々と話しながら、でも今は元気だよと言ってくれたことです。日本のように政治的にも経済的にも比較的安定した社会にいると、何もないことが当たり前になってしまうのですが、「何十年かに一度、すべてをひっくり返すようなことが起きる」アルゼンチンに住む人たちは、本当にタフで底力があります。きっとそうでなければ、アルゼンチンのような激動の社会を生き延びられないのでしょう。苦労を重ねた人ほど他人に優しいといいますが、友人たちの手厚いもてなしや、またいつでもおいでと見送ってくれる優しさに、これまでの苦労の多さ、心痛の深さと、人間としての懐の大きさを感じました。

さて、アルゼンチンといえばタンゴ、ワイン、それにアサード(牛肉の炭火焼)です。

タンゴショーで息もつかせぬほどの細かく激しいステップと、セクシーでいながらアクロバティックなダンスを堪能し、友人には美味しい牛肉の手料理をご馳走になったり、アサードのお店に連れて行ってもらったりしました。日本では軟らかいことがよい肉の条件になっていますが、アルゼンチンの牛肉はそれなりの歯ごたえがあり、塩コショウというシンプルな味付けながら、噛めば噛むほどよい味が出てきます。久々にアサードを食べて、これこそ肉の王道だと心底思いました。この美味しさは言葉では表現できません。みなさん、ぜひ本場アルゼンチンで牛肉を味わってみてください。

10年ぶりのブエノス・アイレスは、見違えるほど都会になっていましたが、歴史的建造物や独自の文化、人々の優しさは変わらず残っていました。第二の故郷としてまたきっと訪れることを心に誓いながら、帰途に着きました。

Hasta pronto, Buenos Aires.

ラテンアメリカ研究所  元職員 Wより

2008年3月15日土曜日

南極便り(Una carta desde el Océano Antártico)

ラテンアメリカ論IIの伊高講師よりお便りが届きました。臨場感いっぱいのお便りに、旅心を誘われる人も多いはず。

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ラテ研の皆さんへ

いま眼前に氷の半島、島々、氷塊が迫っています。ペンギンが群れなし、アザラシが氷の床に眠り、鯨がはねています。人生で初めて味わう南極の感動です。ラ米研の皆さんと一緒だったら、さぞかし楽しいだろうと思います。この旅のお話は、いずれ東京でいたしましょう。

修了式は済みましたか。式後の昼食を逃したのは残念です。

旅の話に戻りますが、リオデジャネイロ郊外の日本人移住地でブラジル移民100周年を祝福しました。ブエノスアイレスでは記者根性が甦り、大いに取材しました。これも旅の収穫として、そのうち披露します。

マルビーナス(フォークランド)諸島も20年ぶりに訪ねました。地雷原がかなり減っていました。ティエラデルフエゴのウスアイアでは、良い本を仕入れました。亜国の世界一うまい牛肉をたらふく食べました。 

南極の後は、ホーン岬、ビーグル水道、マゼラン海峡、プンタアレナス、南米大陸最南端、チリパタゴニア氷河地帯と航海して、バルパライソで下船します。ちょうど旅の半分が終わったところです。

また、書きます。お元気で。

2008年3月9日 南極海にて、

ラテンアメリカ講座講師  伊高浩昭

2008年3月14日金曜日

ツバル便り(Una carta desde Tuvalu en el Océano Pacífico)



ラテ研の皆さんへ

先月3週間、南太平洋の小島、ツバルに滞在しました。

ツバルは昨今、地球温暖化で最初に沈む国として知名度が上がっています。月の満ち欠け、つまり潮の満ち引きを計算して二度、大潮の島の様子を記録に撮りました。この目で見る気候変動の被害は、島本来もつ美しさとあまりにかけ離れている一方、そこで暮らす人々にとってはあたりまえの生活の一部になっており、私たちはとりかえしのつかないものを失っているという感覚にとらわれました。

済みきった大きな空と、まばゆい陽の光の下に、伝統に根付いた生活を送る人々がいます。その多くが、将来その大地が沈むことは知らされているけれど、受け入れていませんでした。この美しい生活の一端を写真から想像していただければ嬉しいです。

ツバル滞在後、一路ニュージーランドから南米大陸に飛び、現在南米及びその周辺を回っています。

また後日ご報告します。

3月9日 

ラテンアメリカ講座受講生 M. Matsueda

2008年2月22日金曜日

グアテマラ便り(Una carta desde Guatemala)


写真:実松克義撮影


こんにちわ。ラテンアメリカ研究所所員の実松です。

グアテマラに来て、マヤ文化の中心地、ケツァルテナンゴを訪れました。

ケツァルの土地という意味で、スペイン人征服者とともにやってきたメキシコ人が名付けたものです。(ナワトル語)オリジナルな名前はシェ・ラフフ・(ノッホ)と言います。マヤ・キチェー語で「10の(叡智の)下で」という意味です。通称シェラと呼ばれています。

ケツァルテナンゴに滞在中、2月3日の日曜日に、近くにあるサン・ファンというマヤ・マム族の村を訪れました。行ってみると、その日は「ビルヘン・デ・カンデラリア」という村祭りの最中でした。

写真はその祭りの最大の出し物、「仮面の踊り」の様子です。

マヤ・マム族はマヤ・キチェー族の次に大きなグループで、非常に古い歴史を持っています。マムとは老人、古いもの、という意味です。マヤ・カレンダーの「歳神」をも意味します。ケツァルテナンゴの近くの小村の祭りですが、仮面の踊りは現代マヤ文化の複雑なシンクレティズムを表しています。神話上の人物、動物等のマヤ文化本来の仮面もありますが、それに混じって西欧人の仮面がたくさん登場します。

グアテマラ・マヤ民族は1524年、スペイン人、ペドロ・デ・アルバラードによって征服されます。その後のキリスト教による支配、そういううっ屈した心性が仮面の踊りの伝統になったのだと思います。

ビルヘン・デ・カンデラリアの祭りにはたくさんの蝋燭を燃やし、また建物が壊れるぐらいの爆竹を鳴らしますが、ヨーロッパのカトリックとは違うでしょうね。キリスト教はここでは完全に土着化しています。マヤ人にとっては表層的な存在です。敬虔なクリスチャンであっても、一皮むけば生粋のマヤ人です。以前に会ったカトリックの神父が嘆いていましたが。

グアテマラより    ラテンアメリカ研究所所員、実松

2008年2月12日火曜日

ホンジュラス便り(Una carta desde Honduras)


写真:Y.W. 撮影
みなさん、こんにちは。

ラテンアメリカ研究所の職員として一昨年までお世話になったWです。
早いもので、ホンジュラスに来て1年が過ぎました。
初めての中米での生活と慣れない仕事に追われ、非常に濃密な1年でしたが、ラテンアメリカの現場にいられる幸せを感じています。

人の交流の盛んなラテンアメリカ研究所での仕事を通して知り合った人は数百人にのぼりますが、こんな小さな国ホンジュラスで何と4人ものラテンアメリカ講座受講生OB/OGに出会いました!
そのほか、話してみると共通の知り合いが研究所関係者だったということも。
「世界は狭い」、いえ「ラテンアメリカファンの世界は狭い」ですね。
皆さん、研修生やボランティアとして、講座で身につけた語学や知識を生かして活躍しておられます。

こうして研究所とのつがなりは今でも続いていますし、ラテンアメリカにかかわっている限り、きっとこれからもいろんな場所でいろんな方と再会できるのだろうと思います。
多くのラテンアメリカファンとの出会いを生んでくれた立教大学ラテンアメリカ研究所のすばらしさを、日本から遠いホンジュラスで改めて感じています。

みなさんとも、いつかどこかでお会いできるのを楽しみにしています。
¡HASTA PRONTO!

坂の街、テグシガルパより
Y. W.(元・ラテンアメリカ研究所職員)