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2012年7月21日土曜日

波路はるかに


ラテンアメリカ論IIの伊高講師より、お約束の船上エッセイが届きましたので掲載します。


PBオーシャンドゥリーム号はベネズエラ西部とコロンビアの沖を航行し、パナマ運河カリブ海側のコロン市サンクリストーバル港に19日入港した。グアヤキル在住のギタリスト小林隆平さんは、船上講師仲間で、隆平さんと一緒にタクシーで80km北方のパナマ市に行った。運河沿いの64kmを含む両市間には片側2車線の自動車道が開通済みで、わずか30分で首都に行き着いてしまった。これは画期的なことだ。

旧運河地帯を観たところ、数年前に来た時とあまり変わってはいなかった。だが、ラス・アメリカス橋のたもとにあるエル・チョリージョ地区に行くと、一帯は大きく変わっていた。1989年12月に米軍が侵攻し、「最大8000人が殺害された可能性がある」と報告された同地区では、伝統的な熱帯建築様式の木造大型家屋が幾つも破壊された。この軍事侵攻後、地区は素早く平地にされ、米軍侵攻による破壊の跡は消し去られた。

そこには今や、鉄筋コンクリートの熱帯式大型家屋が並び建てられている。マヌエル・ノリエガ将軍が君臨していたパナマ軍司令部も米軍に破壊されたが、跡地は公園になっていた。これらの新しい建設によって、歴史は真実に触れることなく迂回して、忘却と曖昧の方向に進んでしまった。

旧市街(カスコ・ビエホ=パナマ・ビエハ)から海岸通り沿いに東に広がっていたパナマ湾岸地帯には、高層ビルが建ち並んでいる。今回ビルは一層増えており、さながら〈小型バンクーバー〉という印象だった。この〈パナマ・ヌエバ〉は金満家しか住めない地区とされ、いかにも成金的で、文化や伝統の感じられない空虚な一大空間だった。パナマはラ米の一国だが、この摩天楼からはラ米性はまったく感じられない。

夜、サンクリストーバル港のバルで会う約束をしていたクナ民族の衣装モラのデザイナーである友人に手違いで会えなかったのが心残りだ。

船内では、東京での反原発17万人デモの報告があり、「広島・長崎・福島を経験した日本人がなぜ原発再開を許すのか」との疑問がラ米でも世界でも広がっていると、指摘された。日本の〈下り坂=クエスタ・アバホ〉は経済・政治だけでなく、思想・倫理・文化にも及んでいる。東電、政府、マスメディア、原発専門家らは福島原発事故後、「80km圏内は放射能汚染の危険地帯」であると知りながら、「恐慌=パニック」を誘発してはいけないとの判断で、圏外への緊急退避勧告を発動したり報道したりするのを控えた、という実態も伝えられた。

船は20日早朝、出港し、8時間で運河を通過して、太平洋側に出た。私にとって10回近い運河通航となった。次の目的地は、ニカラグアのコリント港だ。

【7月19~20日パナマにて伊高浩昭】


2011年7月9日土曜日

伊高浩昭の読書日記~フランシスコ・アヤラ著『仔羊の頭』(現代企画室)

 スペイン内戦(1936~39)で数多くの知識人がスペインを去り、スペイン文化に大きな穴が開いた。この世代的な知性の空洞は依然埋まっていない。否、永遠に埋まらないだろう。内戦中から勝利者の側に付いて出国しなかった凡庸で右翼的な作家たちが空洞を埋めることなど所詮不可能だったし、後継作家群には生まれた時代の隔絶があって、空洞を埋めようにも埋められないからだ。本書の著者フランシスコ・アヤラ(1906~2009)は空洞を築いた作家の代表的な一人である。著者は「亡命作家」と呼ばれることに違和感を抱いていたが、スペイン語文学界のノーベル文学賞とも位置づけられるスペイン政府のセルバンテス賞を1991年に受賞したことで、スペイン人作家としてのアイデンティティーを<奪回>した。内戦を起こしたフランシスコ・フランコ(1892~1975)に代表されるスペインファシズムに翻弄され、スペイン文化とりわけ文学の歴史を空洞化せざるを得なかったアラヤだが、亡命地から遠近法を駆使して書いた一連の作品で同賞を受賞したことで、空洞の上に<連続性>の橋を架けたのだ。


 1978年に出版された本書は、五つの短編で構成されている。第一作『言伝』(1948)は、見知らぬ旅人が宿に残した一片の謎の紙切れ(言伝)をめぐる話。目撃者たちが旅人についてさまざまな証言をするが、まったく要領を得ず、旅人像が定まらない。物語の展開は単調かつ執拗だが、作家の筆力を伝える訳者の実力によって一気に読まされてしまう。私は、芥川龍之介の原作に基づく黒澤明の名画『羅生門』(1951)を真っ先に思い浮かべた。旅の夫婦が藪の中で盗賊に襲われるが、この事件の証言者たちがみな異なる意見を述べ、真相はわからない。両作品はよく似た展開で、こうしたことはよくあるのだろう。紙切れの内容は最後まで明かされず、気にかかる。訳者によると、作家は生前、「言伝は、来るべき内戦を指す」と明かしていたという。鬼気迫る思いがする。

 第二作『タホ川』(1949)は、内戦中、無抵抗の共和派民兵を殺害したことで後ろめたい思いを抱き続ける反乱軍将校の話。無意味な殺害に、内戦の非人間性と空しさが重ね合わされている。タホ川はリスボンの畔をテージョ川となって流れ、大西洋に注ぐ。スペインとポルトガルの長期独裁体制を結ぶ象徴的な川だった。第三作『帰還』(1948)は、内戦で敗者となった共和派の人々の、忘れたくとも忘れられない恐怖と悪夢を描く。私は、スペイン前政権(アスナール国民党右翼政権)時代にバルセローナで共和派だった高齢の生存者たちに会ったことがあるが、彼らは「右翼政権になって迫害の恐怖が甦った」と言っていた。彼ら「敗残者」の名誉が回復されたのは、2007年になってからだ。

 第四作『仔羊の頭』(1948)は 深く濃い隠喩が効いた圧巻だ。モロッコを訪れた主人公が、「親戚」だと名乗る一家に招かれた夕食会で口にしたまずい羊料理で消化不良に陥る。その一家にせがまれて、封印していた内戦中の身辺の出来事を渋々語り、内省する。夜半激しく嘔吐するが、翌朝、「消化不良が原因の悪夢」から立ち直り、前を向いて生きていく。第五作『名誉のためなら命も』(1955)は、壁の中に隠れて内戦終結を待った実在の人物の有名な実話を基にしている。五作全編を通じて静かな筆致で描かれており、内戦で翻弄された人々の苦悩が浮かび上がる。 

2011年6月20日月曜日

伊高浩昭の読書日記(No.3)

イタリア「ネオレアリズモ」文学とスペイン内戦

    イタリアには、1940年代初めから20年余り、文学上の「ネオレアリズモ」の時代があった。エーリオ・ヴィットリーニの『シチリアでの会話』(1941年3月)と、チェーザレ・パヴェーゼの『故郷』(同年5月)が、その潮流の初期の時代の双璧とされる。私はスペイン内戦を題材にした文学を読みあさるうちに『シチリアでの会話』にたどりつき、さらに『故郷』まで読み進んだ。

    『シチリアでの会話』(2005年、岩波文庫)は本文300ページ、解説120ページで、解説の重みが際立っている。それもそのはず、作品の全編が巧妙かつ難解で厚い隠喩(暗喩)で覆われており、作品の時代と異なる時代に生きる大方の異邦人には、一読しただけでは、作者の真に意図するところがわからないのだ。私もそうだった。

    ヴィットリーニは、ムッソリーニ率いるファシズム独裁下で、この物語を書いた。その大きな動機は、1936年に近隣のスペインで勃発した内戦だった。この内戦はイタリア人にファシズムの実態を知らしめ、反ファシズム闘争の在り方を強烈に印象付けた。ファシスト党に入党していたヴィットリーニは、スペイン内戦を教訓として、反ファシズムに生まれ変わるのだった。

    作者は、厳しい検閲の網をかいくぐり、発禁処分すれすれのところで、文章技術を駆使して、この作品をものにした。だから、ほぼ全文が<暗喩の仮面>に隠されたのだ。一読後、訳者の鷲平京子の書いた深く読みごたえのある解説を読み、再度、作品を読み直す。こうして理解に到達する。

    『故郷』(河島英昭訳、2003年、岩波文庫)のパヴェーゼもファシスト党に入党したが、後に除名される。パヴェーゼはペンの力で、ファシズム体制に揺さぶりをかけようとした。スペイン内戦はネオレアリズモの作家たちを通じて、イタリア・レジスタンス運動(1943~45)に少なからぬ影響を及ぼしたのだ。

    私は1972~74年のペロン・アルゼンチン政権復活期にペロンを取材し、ペロンがムッソリーニから受け継いだファシズムの「第三の道」論を依然堅持しているのを確認した。そしてペロンは、1950年代に政権を追われてから70年代前半に復権して死ぬまで、スペイン内戦で勝ちファシズム体制を敷いたフランシスコ・フランコ総統のスペインで、長らく安楽な亡命生活を送っていた。

    イタリアにネオレアリズモは生まれたが、ナチス時代のドイツと天皇制軍民全体主義の日本に「ネオレアリズモ」のような潮流があったとは聞いたことがない。ヒトラーや、日本の集団的独裁と異なり、どこか滑稽で抜けたところのあったムッソリーニのイタリア故に、ネオレアリズモが生まれる隙間があったのだろうか。

2011年6月20日、伊高浩昭

追加情報
この記事の本は、立教大学の下記の図書館で貸し出し可能です。
1)エーリオ・ヴィットリーニの『シチリアでの会話』(岩波書店、2005)岩波文庫、図書館本館閲覧室
2)チェーザレ・パヴェーゼの『故郷』(岩波書店、2003)岩波文庫、図書館本館閲覧室



    

2011年6月4日土曜日

ネルーダの死因は癌か、それとも毒殺か?

   チリのノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダ(1904~73)の死因解明調査が実施されることになった。法廷は6月2日チリ共産党の提訴を受けて、法医学当局に必要な措置をとるよう命じた。ネルーダは、バルパライソ南方の太平洋岸にあるネルーダの邸宅「イズラ・ネグラ」の庭に、妻マティルデと並んで眠っているが、死因調査には遺体の点検が不可欠であり、遺体が発掘される見通しとなった。

   なぜこのようなことになったかといえば、法廷が5月、サルバドール・アジェンデ大統領の死因調査を命じ、その遺体が発掘され、調査過程に入ったことから、「ネルーダの死因調査も」ということになったのだ。アジェンデは1973年9月11日のピノチェーらによる軍事クーデターのさなか、炎上する政庁内で死んでいった。自殺説が定着しているが、いま敢えて①自殺②銃による自殺を試みたが死にきれずぶ部下が止めの1発を頭部に撃ち込んだ③他殺――のいずれが死因か、慎重に調査している。

   この動きを受けて、ネルーダの側近で運転手も兼ねていた人物が、メキシコ誌「プロセソ」に、「ネルーダは首都サンティアゴにあるサンタマリーア診療所で毒物を注射されて殺害された疑いが濃厚」と語った。当時のチリ駐在のメキシコ大使も、「メキシコへの亡命を促すため診療所でネルーダに会ったが、彼は元気で病室内を歩いていた。その翌日ネルーダは死んだ」と証言した。従来ネルーダは「前立腺癌の悪化」が死因とされてきたが、アジェンデの死の直後の1973年9月23日に死んだのが「あまりにも唐突で不自然だ」と元側近や本大使は主張している。このためネルーダが所属していた共産党が5月末に死因調査を求めて訴えたのだった。

   背景には、1982年に同じサンタマリーア診療所で、エドゥアルド・フレイ元大統領が毒殺された事件が先に発覚した事実がある。フレイはアジェンデの前の大統領で、ピノチェー軍政に反対していた。ネルーダの側近が言うには、ピノチェーはネルーダが生きている限り、反ピノチェーの象徴的存在になりうるとして、ネルーダを毒殺したとみている。もし毒殺が証明されれば、チリ現代史は書き変えられることになる。

   ところで私は、本文を「読書日記」の一環として書くつもりだった。私はネルーダが大好きで、ピースボートに乗れば必ず、朗読会を催す。ことし3月にも船上でそれをしたが、そのとき中心になって読んでくれたのは、新劇女優の入江杏子(本名・入江久恵)さんだった。その入江さんから著書『檀一雄の光と影』(1999年、文芸春秋社)を署名入りでいただいた。それを読んで驚いた。彼女こそ、檀一雄の話題作『火宅の人』(1975年新潮社)のヒロイン「矢島恵子」のモデルだったのだ!

   船内で4月には、昔のペルシャの詩人オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の全編朗読会を開いたが、この時も入江さんが中心だった。ことし84歳の高齢だが、さすが女優である。船上での光栄な出会いだった。さっそく『火宅の人』を36年ぶりに読み直そうと思ったが、探しても見つからない。見つかり次第、必ず読む。

(2011年6月4日)  伊高浩昭   

2011年6月1日水曜日

伊高浩昭の読書日記(No.2)

   あるメキシコ人作家の『愛のパレード』という翻訳書を読んだ。私にとっては駄作だった。スペイン政府主催のセルバンテス賞の受賞作家の作品だというが、この小説に関する限り、この賞の受賞者の作品とは思えない内容だ。この小説には、主人公をはじめたくさんの人物が登場し、相互に複雑に絡み合う。ミステリー仕立ての物語の展開はあるが、人間が描かれていないのだ。登場人物たちは盛んに動き回るが、それらの人物には血が通っていない。ただ分厚い紙数とともに物語が進むだけで、読むのが苦痛だった。

   近年、スペインやラ米の作家たちの小説をある程度読んできたが、この種の「人間が描かれていない」ものがやたらに目立つ。ガブリエル・ガルシア=マルケス(GGM)、マリオ・バルガス=ジョサ(MVLL)、カルロス・フエンテス(CF)ら、ラ米大作家時代の作家たちはまだ何人か健在だが、後続の作家群が大作家になれないわけ、大作家たちを超えられない理由がわかろうというものだ。

   たとえば、GGMの『百年の孤独』(私は『孤独の百年』が適訳だと思うが)を真似した「百年単位」で物語を展開させる手法がやたらにはやっている。だが、それらの「亜流」では、人間が機械仕掛けの人形のように動くだけで、人生観、世界観、信条、苦悩、情感などがほとんど描かれていない。描く能力がないのか、描く必要はないと思っているのか、どちらかだろう。それとも、時代がすっかり変わってしまい、非人間的なこの世の中には、人間などいなくなってしまった、とでも言いたいのか。

   この種の「無機物のような小説」は、やたらに衒学的、多弁駄弁を弄するものが多く、空しいだけだ。500ページを上回る大部が少なくないが、ボルヘスならば半ページもあれば処理するのに十分な内容だろう。ハードボイルド風の主人公が出てきても、チャンドラーが世に出したような、苦悩しつつ現代社会を生きる主人公とはまったく異なり、ひたすら物語のなかを泳ぎ動き回るだけなのだ。

   「語彙の多さ」や「修辞の美」を誇るスペイン語国民の作家たちであるはずなのに、言葉をやたらに並べるだけで、「真の美」つまり生きた人間の登場する小説が書けなくなってしまったのは何故なのか。セルバンテス賞も、選考委員たちの審美眼も変わってしまったのだろうか。6月末にMVLLが来日する予定だが、機会があれば、これらの点を質問してみたい。

2011年5月27日金曜日

マゼラン最初の世界一周航海記(伊高浩昭読書日記より)

   先ごろ岩波書店から『マゼラン最初の世界一周航海』(長南実訳)という文庫本が出て、一気に読んだ。私はことし1~4月、横浜を出航し東回りで横浜に帰航する86日間の世界一周航海を経験し、太平洋と大西洋でマゼランの航路を横切ったことや、かつてマゼラン海峡を2度航行したことから、この本の内容に強い関心があったのだ。

   ポルトガル人フェルナン・デ・マガリャンイス(1480?~1521、英語名ファーディナンド・マジェラン=日本語でマゼラン)は5隻の船団を率いて1519年8月10日セビージャ港を出港し、翌年10月21日、南米南端地方で、とある波荒い入江に到達した。その奥の水路を用心深く進むと、11月28日太平洋に出た。マゼランは「パタゴニア海峡」と名付けたが、後に「マゼラン海峡」と命名された。

   船団はフィリピンに行くが、マゼランは1521年4月26日、セブ島の東にあるマクタン島で先住民族の領主に戦いを挑み、戦死する。部下のセバスティアン・デルカノら18人がビクトリア号で1522年9月8日セビージャに帰還し、世界初の地球一周航海が3年で完成した。

   この本は、その18人の一人でイタリア人のアントニオ・ピガフェッタの手記と、スペイン国王秘書マクシミリアーノ・トランシルヴァーノがデルカノら3人の乗組員から聞き書きした文章で構成されている。一行が出会った各地の先住民族の風俗やキリスト教への反応の描写が面白い。欧州で当時流行していた怪物伝説に悪乗りしてか、ピガフェッタが「ある木の落ち葉は生きていて、歩きだす」、「この島の住民の耳は体と同じ大きさで、片方の耳を寝床にし、もう片方の耳を体にかぶせる」などと書いているのには失笑を禁じえない。

   スペイン・ポルトガル両王国の海洋権益をめぐる敵対関係や、それと関連して起きたポルトガル人マゼランに対するスペイン人乗組員らの反発と裏切りについての記述も興味深い。両王国はローマ法王の仲介で1494年、世界を二分するトルデシージャス条約を結び、東航(アフリカ周りアジア航路)がポルトガルの領分となったため、スペインは西航(南米周りアジア航路)に乗り出さねばならなかった。香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島(現インドネシア領マルク諸島)にたどりつき、欧州で高価な丁子、肉桂、ニクズクなどの香辛料を本国に大量に運び込むのが最大の目的だった。

   マゼランの狙いもそこにあり、香辛料を船に積んだらパタゴニア海峡経由で帰航してもよかったのだ。だが諸島に到達する前に命を落とし、部下たちがポルトガル艦隊に襲撃される危険を冒して喜望峰を回り、結果として世界一周航海を成し遂げたのだった。スペインは1492年にインディアス(新世界アメリカ)に到達していたが、当初は米大陸よりも香料諸島への関心の方が強かったという。

   ラ米学徒には必読の本である。ぜひ読まれんことを。伊高浩昭(2011年5月27日)

2011年5月11日水曜日

講座を受講するにあたって

2011年のラテンアメリカ講座が始まった。先週はその第1回目。第1週はお試し授業なので、新規講座があると、見学に行く人が多い。こうした時期に、時々質問を受けるのが、
「わたしにはこのクラスを受講する資格があるのだろうか?」というものである。

聞かれた場合には、こう答えている。
「ラテンアメリカ講座ではレベル分けテストをしていません。例えば、同じ授業を何回も受けて完全に理解したい人は翌年もまた同じ授業を取る。ちょっと難しいなと思う授業も、自分は語学の勉強は得意だし今年はたくさん時間が取れそうだから挑戦してみる。今年は仕事が忙しいので予習ができないから、レベルを少し下げて下のクラスを受ける。復習のために初級を受けてみる・・・など、各自の現在の状況に応じて受講できるようにするためです。」

語学の場合は上記の答えでほぼ当てはまるような気がする。

講義課目の場合はどうだろう。これはまったく私見にすぎないので、ここに書くのはどうかなと思ったのだが、聞かれれば答えるので、今年は書いてみる。

これについては講義内容の難しさよりも、内容に興味が持てるかどうかが一番大事であると思う。
たとえば、ラテンアメリカ論1のようにたくさんのレポートを要求される場合であっても、毎回の授業を楽しめるようであれば、書くことは容易なのではないだろうか。自分を触発してくれる授業のテーマなら、自分もきっと語りたくなるだろうし書きたくなるだろうと思う。

ラテンアメリカ論2のように、ニュース解説的な授業の場合はどうだろうか。
その話を聞きたいかどうかが一番大切なような気がする。
どんなに難しい話だったとしても(たとえば、今なら放射性物質に関する話など)、興味がある話ならば、誰でも熱心に聴いているのではないだろうか。

文学の場合はどうだろうか。
かりにラテンアメリカ文学を一度も読んだことがなくても、年間何百冊も様々なジャンルの文学を読み漁っている人は? クラスに出席して話を聞いてワクワクする人はどうだろうか。一度もラテンアメリカ文学を読んだことがなくて、受講する自信がない場合は、今週から読むことになっている、新潮社から出ているガルシア・マルケス「予告された殺人の記録、十二の遍歴の物語」を読んでほしい。2~3日で読み通して、その世界にハマるようなら、きっと楽しい受講ができると思う。

2011年4月18日月曜日

波路はるかに~伊高先生の船上レポート(22)最終回

 PBオセアニック号は4月15日正午石垣島沖、16日正午奄美大島沖、17日正午四国沖を通過し、現在は紀伊半島の北東端沖をかすめつつある。1月23日に始まったピースボートの世界一周航海も86日目の明日、横浜港に帰着して終わる。欧州の航海者たちが16世紀に経験した世界一周航海を、私は500年後に果たしたことになる。今航海は、私の世界観を補強する貴重で具体的な材料になった。

 ここで久々にラ米情勢を2題語りたい。一つは4月16日、キューバ共産党第6回大会がハバナで開かれたことだ。その意義については、『世界』(岩波書店)4月号に書いたが、市場制度を導入して経済改革をし、社会主義体制の存命を図ることだ。16日は、フィデル・カストロが社会主義革命宣言をした日の50周年に当たる。

 開会演説で、ラウール・カストロ共産党第2書記(国家評議会議長)は、長文の中央委員会報告を行なった。冒頭で、「我々は米国の鼻先で社会主義革命をやった。労農諸君、これは貧者の、貧者とともにある、貧者のための社会主義革命であり民主主義革命だ」というフィデルの50年前の発言を掲げて、「その革命を活性化するのが大会の目的だ」と強調した。19日まで続く党大会の様子は、5月の講座で細かく話したい。

 もう一つは、4月10日に実施されたペルー大統領選挙についてだ。民族主義者の元軍人オジャンタ・ウマーラ(48)=ペルー勝利党=が得票率31%で一位、アルベルト・フジモリ元大統領の長女で国会議員のケイコ・フジモリ(35)=2011年の力党=が同23%で2位になり、2人が6月5日実施の決選投票に臨むことになった。

 トレード前政権で経済相と首相を経験した米国よりのペドロ・クチンスキ(大転換のための同盟)18%、前大統領アレハンドロ・トレード(ペルー可能党)15%、元リマ市長ルイス・カスタニェーダ(国民連帯党)9%、その他6人の泡沫的候補が敗れた。クチンスキ、トレード、カスタニェーダの新自由主義経済信奉者3人の敗北は、ペルーの貧困層が「野蛮な資本主義(新自由主義)」に強い不満を抱き続けていることを示した。新自由主義路線を継承したガルシア現政権への強烈な反対の意思表示でもある。

 ウマーラとフジモリは、いずれもアンデス高地など貧困率の高い地方部で票を伸ばした。ウマーラは前回大統領選挙でも得票1位になりながら、「急進性」を警戒されて、2位のアラン・ガルシア現大統領に決選で勝利を持っていかれた。ペルーの保守、有産、親米層がこぞってガルシア支持に回ったからだ。ウマーラは「チャベス(ベネズエラ大統領)寄り」と悪宣伝されたのが響いた。ウマーラはこの敗退に学び、決選に向け多数派工作のため柔軟な交渉姿勢を見せている。

 ケイコも同じだ。得票3位以下の3候補の票をより多く獲得しなければならないからだ。ケイコは、「独裁者にして犯罪者の父大統領の娘」、「大統領になるのは服役中の父親を恩赦するため」などの攻撃をかわして2位に滑り込んだ。ウマーラオ同様、都市の中産層を引き付けるのに躍起だ。

 念願のノーベル賞を去年やっとものにした作家マリア・バルガスジョサが代弁者の役割を果たしているペルーの保守・右翼・有産層は、今選挙で新自由主義を否定され、最大の敗北者になった。候補者を一本化できなかったのも敗因だろう。決選投票は予断を許さない。決選までの推移を見守っていこう。

 では受講生のみなさん、5月7日に会いましょう。

2011年4月17日、紀伊半島沖航行中のピースボート・オセアニック号船上にて、
伊高浩昭

2011年4月14日木曜日

波路はるかに~伊高先生の船上レポート(21)

 PBオセアニック号は4月13日午前10時半、マニラ港に着岸した。彼方に中心街のスカイラインが見える。港の近くには、スペイン支配時代のサンティアゴ要塞跡の、城壁に囲まれた旧市街がある。だが、お目当てはそこではない。港の外れの、幾つかの川の河口付近に密集しているスラム街を訪ねるのが上陸の目的だった。ピースボートの「社会的交流ツアー」の一環だ。住民の生活を支援している地元NGOの案内で回った。

 港の周辺には延々とスラムが連なり、その悲惨さは凄まじい。川には「ボートピープル」の小舟の群がひしめき、川の橋の下には高床式の小屋がびっしり建ち並び、川には筏式の「浮かぶ小屋(フローティングハウス)」があふれていて、すべてが巨大な超貧民街を形成している。その規模の大きさに、一瞬、「美」さえ感じたものだ。

 だがスラムに入ると、耐え難い悪臭、腐臭、下水臭が蒸気のように立ち込めている。川は真っ黒などぶ川で、メタンガスが泡を吹いている。首の無い犬の死体が浮いている。汚物、ゴミが水面を広く覆っている。そんな恐るべき川で、少年たちが橋から飛び込んで遊んでいる。この光景、まさにシュールレアリスムと言うしかない。

 このようなスラムの3カ所を回った。うち2カ所は市当局から立ち退きを命じられているが、代替地が見つからないため、人々は住み続けている。街と街の間は、小型トラックにバスの車体を載せたような乗り合いの「ジプニー」で移動した。車内にこびりついた臭いが鼻をつく。オートバイが客室を横に付けた、計3輪の「トライスクル」、自転車が客室を付けた「ペディーキャブ」が群れなすようにして走り回っている。みな、一走り20円以下の庶民の脚だ。

 足を踏み外せば奈落のようなどぶ川に落ちること疑いない危うい板切れをつなぎ合わせた10mぐらいの「橋」を伝って、筏小屋に入った。9人家族で、親たちは15年前に地方から出てきてずっと住んでいるという。1日3食で100ペソ(2米ドル半=約200円)かかるため、月に食費として最低75ドルは稼がねばならない。家長は魚を釣って売ったり、建設労働者として働いたりして生活費を捻出していると聞いた。母親は「子どもに教育を受けさせたい。いつかもう少しましな家に住めたら」と、控えめに希望を語った。ここの筏小屋群には約30家族、計200人が住んでいる。

 橋の下の住民は、コウモリのようにぶら下がって生きるという形容から、「バットピープル」と呼ばれている。満潮時に浸水しない高床式の小屋が密集しているが、一部は台風が来たときに波に削られ流されてしまったという。住民たちは無表情かつ無愛想で、ビンゴに集中していた。大人たちは小銭をかけて遊ぶ。

 広大なゴミ捨て場の脇で、ゴミの山から金属片やプラスティックを探し出し、それを売って生計を立てている人々の住むスラムにも行った。かつては「スモーキーマウンテン」が名高かったが、いまはない。だが規模は小さくなるが、ゴミ捨て場はあちこちにある。

ある少年は、「何日かかけて僕の背丈の倍ぐらいゴミをあされば、200ペソぐらいにはなる」と言っていた。家族の食費は月3000ペソ前後だから、少年の稼ぎだけでは足りない。父親は建設現場で仕事があれば、賃金を稼ぐ。主婦たちは幼子や乳飲み子を連れていた。若い女には妊婦が多かった。みな、生活苦を一瞬でも忘れたいためだろうか、笑顔を作っていた。
「ゴミの街」には2000世帯、計3万7000人が住んでいる。

 都市計画で建設された下水道にも住民がいた。これは「トンネルピープル」だ。家長が失業者の10家族、計70人が住んでいた。漁港に行って魚を運ぶ賃仕事を得て、わずかな日銭を稼いで飢えをしのいでいるという。

 「増幅し放題のアジア的貧困」を見た。それは政治の貧困の累積した結果でもあるはずだ。

 船上に幾つかのNGOの人々が集まってくれた。別の交流ツアーに協力してくれた組織だ。「ジャピーノ」(日比混血児)たちは、「私たちは強くあらねばならない」という歌詞を繰り返す歌を歌った。買春問題に取り組む組織に支援されている8歳の少女を含む、買春の犠牲になった20歳にも満たない娘たちは、「ウイー・シャル・オーヴァーカム」を合唱した。胸が痛んだ。彼女たちは過去を本当に克服できるのだろうか。克服してほしい、と願わずにはいられ ない。
 
この日、各種の交流ツアーで会った子どもたちは、大震災に見舞われた日本の子どもたちに贈ってほしいと、一人1ペソずつ募金箱に入れてくれた。どぶ川で泳いでいた少年、ゴミの山で掘り出し物を探していた少年、橋の下でうつむいていた少女、筏小屋の少女。そして買春の餌食になった少女たち。彼らの姿が目に浮かび、熱いものが頬を伝わり落ちた。

2011年4月13日
マニラにて 伊高浩昭

2011年4月13日水曜日

波路はるかに~伊高先生の船上レポート(20)

 「PBオセアニック号は4月11日、ボルネオ島北側のマレーシア・サバ州都コタ・キナバル(KK)に寄港した。シンガポールから南シナ海を北東に五十数時間航行して、朝方に到着した。戦時中、日本軍が拠点を設け、連合軍と攻防戦を展開した地だ。同じ熱帯でも、赤道に近いシンガポールよりもKKの方が暑く、歩くだけで汗が流れる。

 この地域の深刻な問題は、森林の乱伐が進み、生態系が破壊され、生息する動植物、とりわけオランウータンの個体数が急速に減りつつあることだ。先日インドのコーチンで、マレーシアから輸入された丸太が港の一角に山積みされているのを見て、背筋が寒くなる思いをしたが、この丸太の大方の出所がボルネオ島なのだ。

 オランウータンを絶滅の危機から救おうと幾つかの取り組みが進められている。その一つが、「ボルネオ保全トラスト・ジャパン(BCTジャパン)」という組織だ。その理事である坂東元・旭山動物園長が船上講師としてシンガポールからオセアニック号に乗り、同組織の取り組みについて講演した。そのこともあって、動物園に行った。「野生を失わせてはいけない」という理由で、人間に慣れたオランウータンが1匹だけ展示され、芸を演じていた。船客たちはオランウータンを救うため、「緑の回廊」を築く同組織の運動にカンパし、かなりの浄財が集まった。

 KKの街は発展している。イスラム教国であることと関係すると思うのだが、いくら探しても酒類の販売店が見つからなかった。酒場やレストランで飲む酒はあっても、船に持ち帰る酒は買うことが出来なかった。特定の販売店に行かなければ手に入らないのかもしれない。
船は日没直前にKK港を出航し、南シナ海を再び北東に進路をとり、最終寄港地マニラに向かい始めた。かつて海賊が出没した海域であるため、夜間航行中は窓のカーテンを閉めるのが義務づけられ、デッキでの散歩も規制される。

2011年4月11日
船上にて 伊高浩昭

2011年4月9日土曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(19)

 船がインド洋本洋から、その北東端のアンデマンダン海南端と、スマトラ島(インドネシア)北端をかすめてマラッカ海峡に入って3日目の4月8日朝、左舷側のマレー半島と右舷側のスマトラ島が接近するころ、左舷側の彼方にシンガポールのラスカシエラス(高層ビル群のスカイライン)が見えた。海上から天にそびえるこの摩天楼は、ニューヨークの4分の1くらいの規模だろうか。港は、まさに海岸の開発地にあり、ガウディの曲線とピサの斜塔の傾斜を併せ持つような大型ビルが建設中だった。港の上を、隣接する島に繋がる空中ケーブルカーが頻繁に行き来している。

 だが都市国家シンガポールの手前の海岸は、マレーシア領を含めて石油コンビナートと貯油タンク基地が連なる。港の外は、沖待ちのタンカー、油化タンカー、コンテナ船、貨物船などがひしめき、水先案内人の舵さばきで船は徐行する。巨大船の谷間のような海に、小さな手漕ぎの漁船が出漁し、魚を釣っている。「アジア的情景」の名残を、小さな漁船に見た。一帯の光景は、経済の隆盛を反映させながらも、乱開発の危険性を感じさせ、経済成長期に破壊された日本の海岸線に思いを馳せた。地球は、この地でも悲鳴を上げている。
 
私は小学校時代に、南洋一郎(みなみ・よういちろう)の「海洋冒険小説シリーズ」に親しんだ。そのなかに、題名の記憶は定かではないが、『深海の魔魚』とかいう本があった。
マレー半島南端とシンガポール島の間のジョホール水道が舞台で、「畳10畳もの大きさの頭を持つ」大蛸が出没し、航行する船の人を海に引き込んでは餌食にしていたが、主人公が退治に乗り出したところ、その主人公も体を絡め取られ吸盤で吸いつけられ、あわや海に引っ張り込まれそうになる。その瞬間、部下のマレー人が毒を塗った吹き矢を放つ。矢は大蛸の脚に命中し、主人公はからくも海に引き込まれずに助かる。それから何日から経ってから、海面に大蛸の死体が浮いていた。。。。というような物語だ。
 
以来、私は、いつの日かジョホールの海を訪れたいと思い、願っていた。それが、ついに叶った。シンガポールから地下鉄を乗り継ぎ、バスに乗ってジョホール水道上の橋を渡り、マレーシアのジョホールバルに行き着いたのだ。マレー人、華人、インド人らが入り混じった他民族の街で、頭部を布で覆ったマレー人女性イスラム教徒の姿がちらほら見られた。時間の都合で、ビールを飲み、街を少し歩いただけで、再びジョホール水道を越えてシンガポールに戻った。往復ともに出入国管理所と税関を通る。私は朝、船でシンガポールに入港し、夕刻、マレーシアからまたシンガポールに入国したことになる。
 
 幅300mかそこらの狭い水道で、船は航行しない。マラッカ海峡とシンガポール海峡を伝ってインド洋と南シナ海(太平洋西端)が結ばれているため、水道の航行価値がないからだ。私は、ジョホール水道を2度バスで越え、ジョホールバル側から水道の畔に立って、小学生時代からの夢が実現したのを静かに喜んだ。
 
夕食は、港に近い中華街で食べたが、味が濃くて辛く、慣れ親しんでいる横浜中華街の味に軍配を上げた。地下鉄内で観察した、圧倒的に華人が多いシンガポール人の表情は、経済が発展した「第1世界」の労働者・勤労者のそれで、日本の電車内とあまり変わらない。生活と社会の発展が、人間を小ざかしくし、つまらなくするのだ。だが私は中年の華人から座席を譲られた。「シェーシェー」と言って、座らせてもらった。彼は笑顔を見せてくれた。このとき、かすかに人間味を感じることができた。9日午前零時、船は出航し、マレーシアのボルネオ島の飛び地にあるコタキナバルに向かう。

20110408
シナガポール停泊中のPB船上にて
伊高浩昭

2011年4月6日水曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(18)

長方形の枠組みの上部に「FUKUSHIMA」の大きな文字。中央に「怪獣中の怪獣ゴジラ」がものすごい形相で放射能を日本社会に浴びせて破壊をほしいままにしている。そんな世相漫画が外国で流れている。日本人なら、発想することはできても、書き表すことは難しい内容だろう。


ラ米研の開講日が5月になったため、私は当初のコーチン(インド西南部)下船・帰国という予定を変更し、横浜まで乗船し続けることになった。3月11日以降の日本の歴史的な悲劇の日々にアフリカ北部、地中海、紅海、インド洋に居た私は、おそらく終生、「そのとき東京(日本)に居なかった」ことに後ろめたい思いを抱き続けることだろう。だが、修羅場に居られなかった以上、「負い目を負う」だけにとどまることなく、この際、ピースボートによる世界一周航海を完成させ、世界観を新たにしてから帰国するのがよいと考えた。今航海が私にとって、最初で最後の世界一周の機会でもあるからだ。

トルコからインドまで乗船した船上講師仲間に、著名なMC(マスター・オブ・セレモニー、ラップミュージックを作り演じる人=ラッパー)のKダブシャイン(各務貢太)が居た。40代前半の日本人ナイスガイで、船客たち、とりわけ若い層を大いに湧かせた。私は、彼の東京での大地震体験報告を聴き、彼のラップの詩を「現代社会を告発する優れたジャーナリズム」だと捉えた。そこで「ラップとジャーナリズム」という1時間の講座を彼と共催し、音楽芸術、ジャーナリズム、破壊と創造、メディアの堕落、大震災・原発大事故後の状況にどう対応すべきか、などについて語り合った。熟年層と青年層の両方からかなりの反響があった。普段なかなか接触する機会のない職業や独特の生き方をしている人々との「合作」は、実りがあるものだ。

PBオセアニック号は昨日正午、インド南端とスリランカ南端を通過し、マラッカ海峡入り口に向かって真東に航行している。日本との時差も3時間に縮まっている。インド洋は依然穏やかで、波はほとんどない。波がないから、イルカが出てこない。

2011年4月5日、インド洋上にて

伊高浩昭

2011年4月4日月曜日

波路はるかに~伊高先生の船上たより(17)

PBオセアニック号は4月3日、インド西南岸の港町コーチンに寄港した。港に降り立ち、インド人のたたずまいや、ココ椰子、ナツメ椰子、マンゴーや名も知らない巨木が生い茂る森、インド洋から切り離された、大河のような潟湖などを観て、悠久な大地であるのを実感した。景観と、湿気の多い気候は、メキシコ南部にも似ている。


街に出ると、その昔、ポルトガル人が建設した歴史の味麗しい聖フランシスコ教会の偉容が目に飛び込んできた。欧州・インド航路を切り拓いたヴァスコ・ダ・ガマが死ぬと、遺体はこのこの教会に安置された。だが14年後、遺言に基づいて遺体はリズボア(リスボン)に運ばれた。500余年前の世界史の現場にたたずんだ気持になり、しばし瞑想した。

海水と淡水が入り混じる潟湖では、800年も前に中国から伝わったという「大網漁法」があちこちで行なわれている。これを見て思い当たったのは、少年時代、小魚を獲るのに使っていた「四手網(よつであみ)」だ。これを川や池に仕掛けておいて引き上げると、口細、鮒、メダカ、ザリガニなどがよくかかった。この四手網を100倍くらい大きくした形の網を、巨大な木製のてこと錘を使って、湖底に沈めたり引け揚げたりする。一回の捕獲量は小さい。1日に6時間、計100回以上も大網を操って漁民らはエビ、ボラ、蟹などを獲り、別の方法で獲った蜆(しじみ)などとともに魚市場に卸して生計を立てていると聞いた。中国は明(みん)の時代にインド洋航路に本格的に進出した。おそらくそのころ、大網漁法もインドに伝えられたのだろう。高価な緑蟹(グリーンクラブ)の養殖池もあった。

村芝居やお神楽のような芸を観た。王子にむりやり嫁ぎたい野心的な娘が、強引に王子に関係を迫り、王子から刀であちこちを斬られてしまうという、二人芝居で、娘役も男だった。能、狂言の舞台にもかすかに似ていると思った。この芝居を観る前に食べた本場のカレー料理は、実にうまかった。御代わりしないではいられなかった。

街には、1568年に建立されたシナゴーグ(ユダヤ教寺院)があった。紀元2世紀頃、ローマ帝国がエルサレム(パレスティナ)を制圧すると、ユダヤ人の一部はインド洋に逃れた、そんなユダヤ人がコーチンに定住し、自分たちの寺院を建てたのだ。ローマ帝国、ポルトガル、イスラム教徒に迫害された史実が、展示されている絵で語られている。寺院の床に張り詰められている正方形の青いタイルは絵柄から中国製とすぐにわかる。ポルトガル人は中国の青タイルを自国に運んで、絵柄を変え、「アスレージョ」にしたらしい。

シナゴーグに近い「オランダ館」には、ヒンズー教の神々の生活を描いた300年まえの壁画群が残されている。鮮やかな色彩、官能的な姿、即j物的な表現が特色で、「生と性」を謳歌した教徒らの行き方が読み取れる。街のいくつかの店では、「カーマストラ」

の絵や本が売られていた。浮世絵の枕絵と比べ、男女の表情が明るく、絵柄も大らかだ。カースト制度を生んだヒンズー教だが、生々しい「生と性」の表現は洒落ている。

2011年4月3日

印度コーチンにて 伊高浩昭

波路はるかに~伊高先生の船上便り(16)

 船は静かなインド洋を航行している。ここで、遣り残していた宿題を片付けねばならない。2月28日、カリブ海はトゥリニダードトバゴ(TT)の首都ポートオブスペインに寄港した折、ラ米研元受講生・安間美香さんのはからいで日本大使館を訪れ、岩田達明大使にインタビューした。その内容をお伝えする約束をしたまま果たしていなかった。モロッコ、リビア、エジプト、サウディアラビアのアラブ4カ国への寄港を前にして、準備で大童だったからだ。特にリビア情勢は風雲急を告げていて、連日、情報収集に追われていた。内戦状態になったため結局はトリポリ寄港は取り止めとなり、リビア市民との交流やローマ帝国時代の大遺跡訪問の夢も消えた。いま、海賊が出没する危険海域を離れ、取材メモをまとめる時間が出来た。以下は、質疑応答での大使発言の趣旨をまとめたもの。

 TTは石油が出る豊かな国だが、富が偏在している。人口は130万人。自給自足が可能。教育も医療も無料だが、教育の普遍性が欠けている。貧困層には子供たちに教育を十分に施すと言う発想があまりなく、教育の機会均等はあるが普及性が不十分で、貧困家庭の子弟は社会上昇がしにくい。

 米国文化の存在は映画をはじめ圧倒的。音楽はパン(スティールドラム)、ソカ、カリプソなどがあり、それが(特にアフリカ系の)アイデンティティー(認同)になっている。トバゴ島はアフリカ系住民が多く、美しい海浜が売り物の観光地。国の人口の40%を占めるインド系は経済面にひろく進出している。

 宗教はヒンズー教、英国教会、新教、米国諸教会など。多民族社会が認同を形成する過程に依然ある。宗主国が西国から英国に移ったため、認同があいまい、ということが言える。華人系住民は人口の7ないし8%で、カナダなどから移ってきた者もいる。アフリカ系は政治、軍部、官僚、音楽などに進出している。概して国民性は控えめだが、この点は英国譲りか。教育を受けた者は、社会上昇のため勤勉だ。

 独特な「TT英語」がある。たとえば「アイ・アム」と言うべきところを、「アイ・イズ」と言ったりする。「アスク(訊ねる)」を「アクス」と言うこともある。パトワ語も混ざりこんでいる。

 最大の社会問題は治安。石油は出続けているが、ブームは過去のものだ。景気が翳っていたところにコロンビアのコカインが隣国ベネズエラ経由で入ってきた。麻薬の大市場・米国への中継地になったのだ。失業率は8%程度。凶悪犯罪(02年から10年まで3335人殺害さる)も近年目立っており、絞首刑復活について国会が審議している。9月から1月までの雨季には洪水がある。

 外交は(全方位外交ということを考えれば)視野は限られている。米国第一主義。次は英国、欧州、インド、カナダというところ。中国のプレゼンス(存在)はまだまだ。TTはかつてカリコム(カリブ共同体・共同市場)の盟主の座をジャマイカと争っていたが、今日ではベネズエラとキューバが主導するALBA(米州ボリバリアーナ同盟)が圧倒的な存在感を発揮している。TTのメディアはベネズエラのことをほとんど報じない。(海底の天然ガス田開発で、ベネズエラに譲歩して、交渉をまとめた。)

 近隣では、カリブ海の英連邦系島嶼国家群のなかでは、バルバドスが民度が高い。英国流だ。自立できる。グレナダ、サンヴィセンテグラナディーンとは一定の関係がある。ALBA加盟の島嶼3カ国については、冷ややかに見ている。ALBAの援助能力が強いため「仕方ない」と受け止めているようだ。

 在留邦人は60人ぐらい。年間訪問者は500人ないし600人。(この日ピースボート乗船の750人が一度に訪問し、今年の訪問者数が例年の倍以上となるのは疑いない。)日本とTTは互いに相手国を知らなさすぎる。日本企業にとっては、TTがカリコムへの玄関口だ。富士通が進出企業としては存在感がある。発電面は日本企業が4分の1を占有しているが、今後、発電以外でも油化、廃棄物処理などの分野が投資先としては有望だろう。

(今夏、日本の大型経済使節団がTTを訪問する可能性があったが、東日本大地震・原発事故の影響で、見送られたという。)

2011年4月1日
インド洋上にて   伊高浩昭

(今夏、日本の大型経済使節団がTTを訪問する可能性があったが、東日本大地震・原発事故の影響で、見送られたという。)


2011年4月1日 インド洋上にて 伊高浩昭

2011年4月1日金曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(15)

PBオセアニック号は3月30日、アデン湾からインド洋本洋に入った。1800時過ぎ、警護の役割を終えた海上自衛隊の駆逐艦2隻は、ピースボートを含め計9隻の護衛対象の船団を離れた。船団も解散した。船はインド洋中北部を横断し、印度のコーチンに向かっている。


3月29日夕刻には、明らかに海賊船と見られる高速船外機付きの小舟が自衛艦の周囲を、出方を確かめるように旋回し、自衛艦と搭載ヘリコプターによる追跡を避け、去っていった。乗客の何人かが目撃し、小舟を望遠レンズで撮影した。後でこの船影の写真を見せてもらったが、貴重な現場写真だ。自衛艦が数多くの証拠写真を撮影しているのは疑いない。

インド洋本洋は湖水のように静かで、波がない。本船が立てる波にイルカたちが盛んに波乗りを楽しんでいた。31日の海も静かで波がない。何処の海にせよ、こんな波のないおとなしい大海原に遭遇するのは稀だ。雲ひとつない青空は、夜は星の海になる。横浜帰着まで2週間あまりとなった。2011年3月31日

インド洋上にて 伊高浩昭

2011年3月30日水曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(14)

PBオセアニック号は3月28日正午、紅海からアデン湾に抜ける幅30kmのバブルマンデブ海峡を通過、夕刻、タンカーなどさまざまな船籍の8隻とともに船団を組み、船団は前後を海上自衛隊の護衛艦(駆逐艦)に挟まれて進む。今、イエメン沖のアデン湾をインド洋本洋に向けて進んでいる。わが船は船団の最後尾についたが、海賊に航行中であることを悟られないため明かりを消すか、船外に明かりがもれないようにして航行している。明かりがなくなった上階のデッキの上空は、満天星で埋まり、北の空に北斗七星、北極星、南にオリオン座と南十字星が輝いている。


一昨年、自衛艦に護衛され始めたとき、航行する船内では護衛されることの是非をめぐって激論が交わされた。いまでは「やむを得ない措置」として、議論されなくなっている。万が一、750人もの日本人と船長以下250人の乗組員が海賊の人質になったとしたら、身代金の額は天文学的に膨らみ、ただでさえ大地震・原発大事故で大混乱に陥っている日本にさらなる打撃を加えることになる、との暗黙の認識が日本人乗客の間にある。船団航海は、あと2日間続く。

2011年3月28日   イエメンの町の灯火が見えるアデン湾にて

伊高浩昭

2011年3月28日月曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(13)

サウディアラビア紅海沿岸のジッダに3月26日寄港し、一日上陸した。査証は公用・外交、商用、巡礼用が普通で、「観光」はない。だが同国政府の判断で、PB乗客約700人の一日上陸が認められた。しかし入管では、通過に2時間もかかった。米国警察当局との明らかな連携で、一人一人が両親指および、右手の親指以外の4指、同じく左手の4指の指紋、眼鏡外した顔写真をとられたからだ。「国際テロリスト」や「サウディ国内不安定化の扇動者」らの入国を阻止するためらしい。中東・北アフリカのイスラム諸国の歴史的変動期にあって、厳戒態勢をとっている。


モスレムの巡礼の地メッカは、ジッダの東方70kmにある。車で高速道路を30分、電車で45分の近さだ。メッカに行けるのは通常モスレムだけであり、異教徒は特別の許可がないと訪れることはできない。年間400万人が諸外国から玄関口ジッダ空港に降り立ち、メッカ、そしてメディナを訪れるという。ジッダ新空港は敷地の長さが20kmもあると聞いた。

ジッダの旧市街を歩いた。寺院のミナレットの上部の拡声器から、日に5回の礼拝時の放送がなされる。「アッラーは神たちの中の最高の神だ。。。」。浪花節をけだるくしたような音色は、フラメンコの曲の底流にある。イスラム支配したのアンダルシーアで生まれたのが、フラメンコ音楽だ。

ジッダ新市街は、世界一の産油国の主要都市らしく、石油マネー威力を存分に発揮して、現代的かつ成金的だ。女性の姿は極めて少なく、就労年齢女性の30%程度しか働いていないとのこと。顔と手しか露出させてはならない、という厳しい習慣で、女性は身体を黒服と黒頭巾で覆っている。「戒律の厳しさ」は、目に見える女性の服装で象徴される。一方、男は服装は自由だ。戒律の厳しさは、サウディがイアスラム教発祥の地であるという正当な理由のほか、サウディ王家を維持するための方便という側面は無視できないだろう。

郊外で、ベドゥウィン(砂漠の遊牧民)の羊肉料理、生コーヒー、ナム、なつめ菓子などを味わい、彼らの踊りを観た。一瘤ラクダが沢山現れて、飼料の乾燥草を食べた。いまでは、過酷な砂漠での生活を切り上げて都市で暮らす者が多いという。旧市街のスーク(市場)周辺には物貰いや小銭をせびる老人、中年女性がおり、少年少女のチュウインガム売りもいた。社会の底辺労働は移民労働者がこなしている。経済と人種の格差が目に付き、潤沢な原油の生む富が社会全体にあまねくいきわたっていない状況を示していた。

2011年3月26日

ジッダで 伊高浩昭

波路はるかに~伊高先生の船上便り(12)

PBオセアニック号は、3月24日未明、ポートサイドからスエズ運河に入った。明け方、日本が資金を出して建設した、全長5キロの巨大な「日エ友好橋」の下を通過した。運河は(明治維新翌年の)1869年に開通したが、建設技術は、日本が江戸末期だったころの欧州とエジプトのそれだった。東方の紅海の出口ポートスエズまで、右側がエジプト本土(アフリカ大陸)、左側が同国シナイ半島(アジア入り口)で、半島は一面の砂漠だ。半島の彼方にはイスラエル、パレスティナ、レバノンと、動乱の地が拡がっている。本土側は水路の淡水のお陰で緑があり、集落がある。運河防衛のための軍事施設や、中東戦争の記念碑がある。第一次世界大戦時の「運河防衛記念碑」もある。渡河用の浮き橋の備えもある。

パナマ運河と比べて、運河の幅は実に広い。だが両岸から砂が絶え間なく流れ込んで、浅い。だから対面航行が出来ず、船団を組んで運河に入航し、運河内にある湖で、前方からやってくる船団と待ち合わせた上ですれ違うのだ。浚渫船が活躍しているが、対症療法のようで、水深を増すのにはあまり役立っていないような印象を得た。

午後2時ごろ、ポートスエズをかすめて紅海に入った。チュニジア、エジプトの政変を生み、いま欧米軍に攻撃されている内戦さなかのリビヤのある地中海を後方の彼方に意識しつつ、サウディアラビアのジッダを目指す。

2011年3月24日紅海にて

伊高浩昭

2011年3月25日金曜日

波路はるかに~伊高先生の船上便り(11)

船は3月23日、ポートサイドに着き、早朝バスの車列を組んでカイロに向かった。ポートサイドの港と街中、沿道、カイロ市内のいずれにも陸軍戦車部隊が展開し、政変後の暫定軍政下での実質的な戒厳令状況を示している。トケ・デ・ケダ(夜間外出禁止令)は午前零時から朝6時までだ。


検問も厳しい。車列を観光警察巡視車が先導し、それぞれのバスには自動小銃を背広の後ろに隠した若い警備官が乗った。エジプト観光省は、観光相がわざわざ東京のPB本部にエジプト上陸を中止しないでほしいと書簡を送っただけあって、精一杯歓迎してくれた。PB到着、ギザのピラミッド訪問などはエジプト各紙、テレビ・ラジオ、間網新聞で報じられた。

夜半、港に戻ると、PB船の舷門前で、観光省が手配した妖艶な若者たち(男性ばかり)の舞踊団がアラブ風の曲に合わせて、不思議な踊りを披露してくれた。私も招かれ引き込まれ、彼らと共に30分も踊ってしまった。後で「酔っ払っていたのではないですか」と、日本人乗客らから無粋な質問をされた。粋で洒落た地元の文化だから、喜んで踊ったのだ。

カイロの街は、貧富格差が著しい。それが街並みにはっきりと現れている。30年も支配して貧困問題を解決できなかったムバラク腐敗独裁は蹴倒されて当然だった、と人々は言う。古代エジプト文明の発掘物を集めた博物館の横手にある高層の「女性評議会」ビルは焼け焦げていた。政変劇の生々しい「遺跡」である。しばらくはこのまま放置され、いずれは建て直されるのだろう。

館内には、ラムセス2世ら往時の国王らのミイラ、ミイラ棺、副葬品、巨大な石像群があった。夜たった独りで館内を歩いたら、さぞ不気味な思いがすることだろう。懐かしかったのは、半世紀ぐらい前に東京で観た少年王トゥタンカーメンのミイラの頭部を覆っていた、あの素晴らしい面だ。しばし再会を味わった。

午後は、カイロに隣接したギザのピラミッド群を観た。街とピラミッドのある砂漠の境界は石の壁で、そこで砂漠が止まっている、というか食い止められているのが面白い。「エジプトはナイルの賜物」と古来言われるように、カイロの街中をながれるナイルの潤沢な水が街と農業を生かしてきたのだ。至るとことに灌漑用水路があり、砂漠を意識した人間の知恵や対処法が伺える。

観光省職員や日本語ガイドたちは「日本と連帯する」という主旨の文字をつけたそろいのTシャツを着、「日本、東北地方と連帯する」と書いた横断幕を掲げた。欧米や中韓の団体観光客も来ていた。だが観光省は、世界一周船で750人の日本人が来たことを最大限に評価しつつ、その来船を宣伝して、「エジプト観光の安全性」を内外に訴えたかったのだ。

白状するが、スフインクスに恋をしてしまった。7歳の頃、「世界の不思議」という写真集で初めてスフインクスとピラミッド群の写真を観たのだが、それから60年もの歳月が経って、初めて本物の光景に身を置いた。感動し、巨大なこの半人半獣像の前で一時間動けなくなってしまた。じっと見つめ合いながら、自分の半生、世界、日本と世界の状況を考えた。

ピラミッドだけならば、私はアステカやマヤのピラミッドの方に惹かれる。だがスフインクスの存在によって、ギザのピラミッドは輝くのだ。この光景に別れを告げ、一キロあまり離れたレストランで夕食をとったが、カイロへの出発までに40分間猶予があった。水タバコやカフェで人々が憩う夕暮れの下町を私は急ぎ足で通過し、再びスフインクスの見える柵まで辿り着いた。もはや近くには行けない。だが日の入り直前、夕闇迫る中で像とピラミッド群は、その日最後の輝きを見せていた。私は5分間たたずみ、知っているかぎりの言葉で「さようなら」を告げ、バスの停車場に戻った。スフインクスとの対面は、この旅で最も感激した場面だった。

2011年3月23日

カイロで伊高浩昭

波路はるかに~伊高先生の船上便り(10)

 船は3月21日、トルコ・エーゲ海沿岸のクシャダスに入港し、近郊のローマ帝国エフェソス遺跡を訪ねた。広大な都市跡は、1900年以上昔の都会人の生活の痕跡であふれている。直径100メートルもの最大級の劇場は今でも使われているが、その昔、クレオパトラがエジプトからやって来て観劇したという。クレオパトラの妹は姉に敵視され、斬首されたというが、その妹の墓というのもある。ガイドや案内書の説明は神話めいているが、信じるも良し、信じないのも良しだろう。


 2階建ての豪壮な図書館跡もあった。男が十数人並んで腰掛けて用をたす水洗便所跡もある。売春宿は古代都市には付き物のようで、ポンペイにもエフェソスにもあった。それにしても石造文化は執念深く、千年王国の滅びた後も、その何倍もの歳月、往時の姿をいまの世代にさらすのだ。近郊の丘には、セルジュックトルコの城址があった。世界史の一局面の名残を目で観、足で歩く思いがする。ここでも大地震・原発事故の見舞いを受けた。船は夜、エジプトに向けて出航した。

2011年3月21日

PBオセアニック号にて 伊高浩昭