船がインド洋本洋から、その北東端のアンデマンダン海南端と、スマトラ島(インドネシア)北端をかすめてマラッカ海峡に入って3日目の4月8日朝、左舷側のマレー半島と右舷側のスマトラ島が接近するころ、左舷側の彼方にシンガポールのラスカシエラス(高層ビル群のスカイライン)が見えた。海上から天にそびえるこの摩天楼は、ニューヨークの4分の1くらいの規模だろうか。港は、まさに海岸の開発地にあり、ガウディの曲線とピサの斜塔の傾斜を併せ持つような大型ビルが建設中だった。港の上を、隣接する島に繋がる空中ケーブルカーが頻繁に行き来している。
だが都市国家シンガポールの手前の海岸は、マレーシア領を含めて石油コンビナートと貯油タンク基地が連なる。港の外は、沖待ちのタンカー、油化タンカー、コンテナ船、貨物船などがひしめき、水先案内人の舵さばきで船は徐行する。巨大船の谷間のような海に、小さな手漕ぎの漁船が出漁し、魚を釣っている。「アジア的情景」の名残を、小さな漁船に見た。一帯の光景は、経済の隆盛を反映させながらも、乱開発の危険性を感じさせ、経済成長期に破壊された日本の海岸線に思いを馳せた。地球は、この地でも悲鳴を上げている。
私は小学校時代に、南洋一郎(みなみ・よういちろう)の「海洋冒険小説シリーズ」に親しんだ。そのなかに、題名の記憶は定かではないが、『深海の魔魚』とかいう本があった。
マレー半島南端とシンガポール島の間のジョホール水道が舞台で、「畳10畳もの大きさの頭を持つ」大蛸が出没し、航行する船の人を海に引き込んでは餌食にしていたが、主人公が退治に乗り出したところ、その主人公も体を絡め取られ吸盤で吸いつけられ、あわや海に引っ張り込まれそうになる。その瞬間、部下のマレー人が毒を塗った吹き矢を放つ。矢は大蛸の脚に命中し、主人公はからくも海に引き込まれずに助かる。それから何日から経ってから、海面に大蛸の死体が浮いていた。。。。というような物語だ。
以来、私は、いつの日かジョホールの海を訪れたいと思い、願っていた。それが、ついに叶った。シンガポールから地下鉄を乗り継ぎ、バスに乗ってジョホール水道上の橋を渡り、マレーシアのジョホールバルに行き着いたのだ。マレー人、華人、インド人らが入り混じった他民族の街で、頭部を布で覆ったマレー人女性イスラム教徒の姿がちらほら見られた。時間の都合で、ビールを飲み、街を少し歩いただけで、再びジョホール水道を越えてシンガポールに戻った。往復ともに出入国管理所と税関を通る。私は朝、船でシンガポールに入港し、夕刻、マレーシアからまたシンガポールに入国したことになる。
幅300mかそこらの狭い水道で、船は航行しない。マラッカ海峡とシンガポール海峡を伝ってインド洋と南シナ海(太平洋西端)が結ばれているため、水道の航行価値がないからだ。私は、ジョホール水道を2度バスで越え、ジョホールバル側から水道の畔に立って、小学生時代からの夢が実現したのを静かに喜んだ。
夕食は、港に近い中華街で食べたが、味が濃くて辛く、慣れ親しんでいる横浜中華街の味に軍配を上げた。地下鉄内で観察した、圧倒的に華人が多いシンガポール人の表情は、経済が発展した「第1世界」の労働者・勤労者のそれで、日本の電車内とあまり変わらない。生活と社会の発展が、人間を小ざかしくし、つまらなくするのだ。だが私は中年の華人から座席を譲られた。「シェーシェー」と言って、座らせてもらった。彼は笑顔を見せてくれた。このとき、かすかに人間味を感じることができた。9日午前零時、船は出航し、マレーシアのボルネオ島の飛び地にあるコタキナバルに向かう。
20110408
シナガポール停泊中のPB船上にて
伊高浩昭