2011年4月14日木曜日

波路はるかに~伊高先生の船上レポート(21)

 PBオセアニック号は4月13日午前10時半、マニラ港に着岸した。彼方に中心街のスカイラインが見える。港の近くには、スペイン支配時代のサンティアゴ要塞跡の、城壁に囲まれた旧市街がある。だが、お目当てはそこではない。港の外れの、幾つかの川の河口付近に密集しているスラム街を訪ねるのが上陸の目的だった。ピースボートの「社会的交流ツアー」の一環だ。住民の生活を支援している地元NGOの案内で回った。

 港の周辺には延々とスラムが連なり、その悲惨さは凄まじい。川には「ボートピープル」の小舟の群がひしめき、川の橋の下には高床式の小屋がびっしり建ち並び、川には筏式の「浮かぶ小屋(フローティングハウス)」があふれていて、すべてが巨大な超貧民街を形成している。その規模の大きさに、一瞬、「美」さえ感じたものだ。

 だがスラムに入ると、耐え難い悪臭、腐臭、下水臭が蒸気のように立ち込めている。川は真っ黒などぶ川で、メタンガスが泡を吹いている。首の無い犬の死体が浮いている。汚物、ゴミが水面を広く覆っている。そんな恐るべき川で、少年たちが橋から飛び込んで遊んでいる。この光景、まさにシュールレアリスムと言うしかない。

 このようなスラムの3カ所を回った。うち2カ所は市当局から立ち退きを命じられているが、代替地が見つからないため、人々は住み続けている。街と街の間は、小型トラックにバスの車体を載せたような乗り合いの「ジプニー」で移動した。車内にこびりついた臭いが鼻をつく。オートバイが客室を横に付けた、計3輪の「トライスクル」、自転車が客室を付けた「ペディーキャブ」が群れなすようにして走り回っている。みな、一走り20円以下の庶民の脚だ。

 足を踏み外せば奈落のようなどぶ川に落ちること疑いない危うい板切れをつなぎ合わせた10mぐらいの「橋」を伝って、筏小屋に入った。9人家族で、親たちは15年前に地方から出てきてずっと住んでいるという。1日3食で100ペソ(2米ドル半=約200円)かかるため、月に食費として最低75ドルは稼がねばならない。家長は魚を釣って売ったり、建設労働者として働いたりして生活費を捻出していると聞いた。母親は「子どもに教育を受けさせたい。いつかもう少しましな家に住めたら」と、控えめに希望を語った。ここの筏小屋群には約30家族、計200人が住んでいる。

 橋の下の住民は、コウモリのようにぶら下がって生きるという形容から、「バットピープル」と呼ばれている。満潮時に浸水しない高床式の小屋が密集しているが、一部は台風が来たときに波に削られ流されてしまったという。住民たちは無表情かつ無愛想で、ビンゴに集中していた。大人たちは小銭をかけて遊ぶ。

 広大なゴミ捨て場の脇で、ゴミの山から金属片やプラスティックを探し出し、それを売って生計を立てている人々の住むスラムにも行った。かつては「スモーキーマウンテン」が名高かったが、いまはない。だが規模は小さくなるが、ゴミ捨て場はあちこちにある。

ある少年は、「何日かかけて僕の背丈の倍ぐらいゴミをあされば、200ペソぐらいにはなる」と言っていた。家族の食費は月3000ペソ前後だから、少年の稼ぎだけでは足りない。父親は建設現場で仕事があれば、賃金を稼ぐ。主婦たちは幼子や乳飲み子を連れていた。若い女には妊婦が多かった。みな、生活苦を一瞬でも忘れたいためだろうか、笑顔を作っていた。
「ゴミの街」には2000世帯、計3万7000人が住んでいる。

 都市計画で建設された下水道にも住民がいた。これは「トンネルピープル」だ。家長が失業者の10家族、計70人が住んでいた。漁港に行って魚を運ぶ賃仕事を得て、わずかな日銭を稼いで飢えをしのいでいるという。

 「増幅し放題のアジア的貧困」を見た。それは政治の貧困の累積した結果でもあるはずだ。

 船上に幾つかのNGOの人々が集まってくれた。別の交流ツアーに協力してくれた組織だ。「ジャピーノ」(日比混血児)たちは、「私たちは強くあらねばならない」という歌詞を繰り返す歌を歌った。買春問題に取り組む組織に支援されている8歳の少女を含む、買春の犠牲になった20歳にも満たない娘たちは、「ウイー・シャル・オーヴァーカム」を合唱した。胸が痛んだ。彼女たちは過去を本当に克服できるのだろうか。克服してほしい、と願わずにはいられ ない。
 
この日、各種の交流ツアーで会った子どもたちは、大震災に見舞われた日本の子どもたちに贈ってほしいと、一人1ペソずつ募金箱に入れてくれた。どぶ川で泳いでいた少年、ゴミの山で掘り出し物を探していた少年、橋の下でうつむいていた少女、筏小屋の少女。そして買春の餌食になった少女たち。彼らの姿が目に浮かび、熱いものが頬を伝わり落ちた。

2011年4月13日
マニラにて 伊高浩昭