2011年7月9日土曜日

伊高浩昭の読書日記~フランシスコ・アヤラ著『仔羊の頭』(現代企画室)

 スペイン内戦(1936~39)で数多くの知識人がスペインを去り、スペイン文化に大きな穴が開いた。この世代的な知性の空洞は依然埋まっていない。否、永遠に埋まらないだろう。内戦中から勝利者の側に付いて出国しなかった凡庸で右翼的な作家たちが空洞を埋めることなど所詮不可能だったし、後継作家群には生まれた時代の隔絶があって、空洞を埋めようにも埋められないからだ。本書の著者フランシスコ・アヤラ(1906~2009)は空洞を築いた作家の代表的な一人である。著者は「亡命作家」と呼ばれることに違和感を抱いていたが、スペイン語文学界のノーベル文学賞とも位置づけられるスペイン政府のセルバンテス賞を1991年に受賞したことで、スペイン人作家としてのアイデンティティーを<奪回>した。内戦を起こしたフランシスコ・フランコ(1892~1975)に代表されるスペインファシズムに翻弄され、スペイン文化とりわけ文学の歴史を空洞化せざるを得なかったアラヤだが、亡命地から遠近法を駆使して書いた一連の作品で同賞を受賞したことで、空洞の上に<連続性>の橋を架けたのだ。


 1978年に出版された本書は、五つの短編で構成されている。第一作『言伝』(1948)は、見知らぬ旅人が宿に残した一片の謎の紙切れ(言伝)をめぐる話。目撃者たちが旅人についてさまざまな証言をするが、まったく要領を得ず、旅人像が定まらない。物語の展開は単調かつ執拗だが、作家の筆力を伝える訳者の実力によって一気に読まされてしまう。私は、芥川龍之介の原作に基づく黒澤明の名画『羅生門』(1951)を真っ先に思い浮かべた。旅の夫婦が藪の中で盗賊に襲われるが、この事件の証言者たちがみな異なる意見を述べ、真相はわからない。両作品はよく似た展開で、こうしたことはよくあるのだろう。紙切れの内容は最後まで明かされず、気にかかる。訳者によると、作家は生前、「言伝は、来るべき内戦を指す」と明かしていたという。鬼気迫る思いがする。

 第二作『タホ川』(1949)は、内戦中、無抵抗の共和派民兵を殺害したことで後ろめたい思いを抱き続ける反乱軍将校の話。無意味な殺害に、内戦の非人間性と空しさが重ね合わされている。タホ川はリスボンの畔をテージョ川となって流れ、大西洋に注ぐ。スペインとポルトガルの長期独裁体制を結ぶ象徴的な川だった。第三作『帰還』(1948)は、内戦で敗者となった共和派の人々の、忘れたくとも忘れられない恐怖と悪夢を描く。私は、スペイン前政権(アスナール国民党右翼政権)時代にバルセローナで共和派だった高齢の生存者たちに会ったことがあるが、彼らは「右翼政権になって迫害の恐怖が甦った」と言っていた。彼ら「敗残者」の名誉が回復されたのは、2007年になってからだ。

 第四作『仔羊の頭』(1948)は 深く濃い隠喩が効いた圧巻だ。モロッコを訪れた主人公が、「親戚」だと名乗る一家に招かれた夕食会で口にしたまずい羊料理で消化不良に陥る。その一家にせがまれて、封印していた内戦中の身辺の出来事を渋々語り、内省する。夜半激しく嘔吐するが、翌朝、「消化不良が原因の悪夢」から立ち直り、前を向いて生きていく。第五作『名誉のためなら命も』(1955)は、壁の中に隠れて内戦終結を待った実在の人物の有名な実話を基にしている。五作全編を通じて静かな筆致で描かれており、内戦で翻弄された人々の苦悩が浮かび上がる。