船は3月23日、ポートサイドに着き、早朝バスの車列を組んでカイロに向かった。ポートサイドの港と街中、沿道、カイロ市内のいずれにも陸軍戦車部隊が展開し、政変後の暫定軍政下での実質的な戒厳令状況を示している。トケ・デ・ケダ(夜間外出禁止令)は午前零時から朝6時までだ。
検問も厳しい。車列を観光警察巡視車が先導し、それぞれのバスには自動小銃を背広の後ろに隠した若い警備官が乗った。エジプト観光省は、観光相がわざわざ東京のPB本部にエジプト上陸を中止しないでほしいと書簡を送っただけあって、精一杯歓迎してくれた。PB到着、ギザのピラミッド訪問などはエジプト各紙、テレビ・ラジオ、間網新聞で報じられた。
夜半、港に戻ると、PB船の舷門前で、観光省が手配した妖艶な若者たち(男性ばかり)の舞踊団がアラブ風の曲に合わせて、不思議な踊りを披露してくれた。私も招かれ引き込まれ、彼らと共に30分も踊ってしまった。後で「酔っ払っていたのではないですか」と、日本人乗客らから無粋な質問をされた。粋で洒落た地元の文化だから、喜んで踊ったのだ。
カイロの街は、貧富格差が著しい。それが街並みにはっきりと現れている。30年も支配して貧困問題を解決できなかったムバラク腐敗独裁は蹴倒されて当然だった、と人々は言う。古代エジプト文明の発掘物を集めた博物館の横手にある高層の「女性評議会」ビルは焼け焦げていた。政変劇の生々しい「遺跡」である。しばらくはこのまま放置され、いずれは建て直されるのだろう。
館内には、ラムセス2世ら往時の国王らのミイラ、ミイラ棺、副葬品、巨大な石像群があった。夜たった独りで館内を歩いたら、さぞ不気味な思いがすることだろう。懐かしかったのは、半世紀ぐらい前に東京で観た少年王トゥタンカーメンのミイラの頭部を覆っていた、あの素晴らしい面だ。しばし再会を味わった。
午後は、カイロに隣接したギザのピラミッド群を観た。街とピラミッドのある砂漠の境界は石の壁で、そこで砂漠が止まっている、というか食い止められているのが面白い。「エジプトはナイルの賜物」と古来言われるように、カイロの街中をながれるナイルの潤沢な水が街と農業を生かしてきたのだ。至るとことに灌漑用水路があり、砂漠を意識した人間の知恵や対処法が伺える。
観光省職員や日本語ガイドたちは「日本と連帯する」という主旨の文字をつけたそろいのTシャツを着、「日本、東北地方と連帯する」と書いた横断幕を掲げた。欧米や中韓の団体観光客も来ていた。だが観光省は、世界一周船で750人の日本人が来たことを最大限に評価しつつ、その来船を宣伝して、「エジプト観光の安全性」を内外に訴えたかったのだ。
白状するが、スフインクスに恋をしてしまった。7歳の頃、「世界の不思議」という写真集で初めてスフインクスとピラミッド群の写真を観たのだが、それから60年もの歳月が経って、初めて本物の光景に身を置いた。感動し、巨大なこの半人半獣像の前で一時間動けなくなってしまた。じっと見つめ合いながら、自分の半生、世界、日本と世界の状況を考えた。
ピラミッドだけならば、私はアステカやマヤのピラミッドの方に惹かれる。だがスフインクスの存在によって、ギザのピラミッドは輝くのだ。この光景に別れを告げ、一キロあまり離れたレストランで夕食をとったが、カイロへの出発までに40分間猶予があった。水タバコやカフェで人々が憩う夕暮れの下町を私は急ぎ足で通過し、再びスフインクスの見える柵まで辿り着いた。もはや近くには行けない。だが日の入り直前、夕闇迫る中で像とピラミッド群は、その日最後の輝きを見せていた。私は5分間たたずみ、知っているかぎりの言葉で「さようなら」を告げ、バスの停車場に戻った。スフインクスとの対面は、この旅で最も感激した場面だった。
2011年3月23日
カイロで伊高浩昭