20110311 ジブラルタル海峡に向かいつつあるPB船上で 伊高浩昭
波路はるかに 伊高先生の船上便り ~(7)の2
PBオセアニック号は3月12日、スペイン地中海岸のマラガに寄港した。私が初めてマラガを訪れたのは36年前の1975年初めで、独裁者フランシスコ・フランコ総統が最後の10カ月を生きていた時だった。だから、小高い丘の上にあるアラブ支配時代のアル・カサル(城砦)に登って当時を振り返り、ひとしおの感慨があった。眼下の彼方にマラガ港が一望でき、いとしいオセアニク号の姿が見えた。丘の真下には、昔と変わらぬ闘牛場がある。最初の時は、この闘牛場の脇から階段を上って丘上の城址に出た。地元民に「あの丘に登る階段はどうなっていますか」と訊くと、「閉鎖されています。強奪など、観光客を狙う犯罪が激発したからです」との答が返ってきた。内戦時代、マラガには「マラガの屠殺者」と呼ばれる血塗られた虐殺者がいた。内戦で敗れた共和派の人々を、公衆の面前で容赦なく殺しまくった人物だ。内戦史を振り返れば、必ずこの屠殺者のことを思い出さざるをえない。
この日、バスで南方郊外の丘上に建つミハスの白亜の街を訪ねた。いかにもスペイン南部らしい、美しい観光地だ。夜は独りでマラガの中心街を散歩した。ここのカテドラルは鐘楼が片方しかない。マラガ出身者の血を引くベルナルド・ガルベス(1746~1786)は1777年、スペイン領ルイジアナの副王になったが、米国独立戦争で重要な役割を果たし、テキサス州ガルベストンにガルベスの名を残している。マラガ市民が鐘楼を建設しようとしていたころ、ガルべスは米国独立戦争に義勇軍を派遣するようマラガに求めた。若者らが大挙して大西洋を渡って行ったため、鐘楼の片方は建設されないままに終わってしまったという。面白い秘話だ。
旧市街には、パブロ・ピカーソの生家と、その美術館がある。モスレムから支配権を奪回したキリスト教徒による建築も興味深い。モスクの壁を使い、カトリック教会を築いている。スペイン人はラ米の征服先でも、先住民族の祭壇だったピラミッドを破壊し、見せしめのように、その上にカトリックの神殿を築いた。こうした宗教的因果の歴史がはっきりと見えるのだ。そんな街を歩きながら、気にいったバルに寄っては、ビノティント(赤ワイン)、生ハム、マンチャのチーズ、アンチョビータの酢漬けで旅情を味わった。あるバルのメセーロ(給仕)は、クーバから来た若者だった。ハバナで知り合ったスペイン娘と結婚して、出クーバ、スペイン永住に成功したという。私がクーバやハバナの詳しい話をすると、すっかり喜んで、大いにサービスしてくれた。結局、この店には一晩に二回も立ち寄ることになった。
帰船時刻は22時だった。ぎりぎりまで歩いて呑んだ。流しのギタリストの音色に乗って「オホス・エスパニョーレス(スペインの瞳)」を歌った。「ク・ク・ルクク・パローマ」や「ラ・マラゲーニャ(マラガ女)」も歌ってしまった。マラガ市民は日本の大地震や原発の悲劇を知っていた。通りすがりの若者の群が、「アリーバ(頑張れ)」と励ましてくれた。
2011年4月12日 マラガにて 伊高浩昭