2021年10月19日火曜日

写真集「幽閉する男」

 当研究所研究員であるDaniel Machado氏の写真集「幽閉する男」が出版されました。

「一邸宅を通してウルグアイと言う小国の歴史を辿る画期的な写真集」、ぜひご覧ください。

出版社 ‏ : ‎ 冬青社 (2021/7/20)

ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4887731998

著者Website:https://danielmachado.com/

レビュー:記憶や感情を呼び醒ます媒介としての写真  by Taro Shimada

ふとした時に聴こえてきた音楽のメロディが引き金となって、ある種の記憶や感情が鮮明に蘇るような感覚を覚える時がある。曲名やアーチスト名のような具体的な情報を思い出すよりも先に、その曲を以前聴いたときに自分が感じていた感情や、その頃目にしていたであろう光景が、ひとかたまりの感覚として強く意識され、懐かしいような切ないような余韻がこころに残ることが印象的なのだ。かたちにもならない、ことばにもしづらいその感覚の向こう側に何があったのかを懸命に手繰り寄せようとしても手が届かないような、そういうもどかしさだけを残して、その感覚は、たいてい蜃気楼のように消えてしまうのだが、ときには少しずつ夢から醒めるように、その感覚をもたらした時と場所のコンテクストをリアルにこころの中に再生できることもある。そんな時は、失くしたことすら忘れていた子供のころの宝物をみつけたような気持ちになったりするものだ。

同じように、ある写真との出会いによって、視覚的なイメージではなく、なんらかの記憶や感情の断片がどこからともなく呼び起こされるような不思議な感覚を体験することがある。その断片を大切に手繰り寄せていけば、もっと具体的な、なにか自分にとって大切なものに辿り着けそうな予感がするのだ。そういう予感を引き起こす音楽や写真に、僕は決まって惹きつけられるようだ。

被写体である人物やモノや空間、その切り取り方、あるいは定着された色調やタッチなどの印象深さに魅了されるのは、あくまでそうした体験への入り口であって、僕がその向こう側に探ろうとしているのは、視覚的にとらえることのできない、ある種のこころの襞のようなものだ。僕はそれを、「記憶」や「感情」という平凡なことばでしか語ることができないが、その織りなす綾の中へと迷い込むことこそが、僕にとって、写真をみることの愉しみなのだ。

ダニエル・マチャドの『幽閉する男』は、幾重にも重なった目に見えないそんな襞に分け入る独特の感覚を久しぶりに思い出させてくれる。

年月の積み重なりによって熟成され、変色し、ところどころ表面が剥がれ落ちた壁や、陽に焼けたり欠けたりしながらも不思議な愛くるしさを放つ玩具たち、空間全体をうっすらと膜のように覆う陰影。時の流れによるそうした風化に抵抗しようとする意思の積極的な欠如まで含めて、この「男」は、間違いなくそうしたものたちと同じ世界の一部と化している。

僕の生きる日常はそこからはるかに遠い。たとえるなら、「男」の世界には、アナログレコード音源を真空管アンプで増幅し、使い込まれたスピーカーで聴くときに感じる音の厚みや重層感、そこから立ち上がる空気感に通じるような襞が、濃厚に織り込まれている。対して僕の生きる毎日は、デジタル信号から復元された音楽コンテンツのストリーミングサービスを、iPhoneに接続したヘッドフォンで聴くようなものだ。不純物を一切含まず、風化も劣化もしない代わりに、積み重なる時の襞を無限に織り込んで熟成されていくような間や奥行きは、そこにははじめから存在しない。正反対と言っても良いほどに隔たったこの「男」の日常に、しかし、僕は何の抵抗もなく、むしろある種の心地よさを感じてしまうのだ。

決して戻ってくることのない時間、その時間・空間を共有した人やモノたち、そしてその時、その場所にいた他でもない自分という存在そのもの、これらを包み込み、通奏低音のように流れる無常観と諦念を、不思議なおだやかさで受け入れる優しさのようなもの。マチャドの写真の向こうから感じ取れるこうした感覚に、僕自身の記憶や、それらに紐付いた感情の断片が共振を起こしているのだ。だから、実際には訪れたこともないウルグアイのこの場所で暮らす一人の「男」の人生や生活空間を捉えたイメージの数々に、僕は不思議な親しみを感じるのだろう。

それは徒に激しく感情をゆさぶるようなたぐいの押し付けがましい共振ではない。むしろゆったりと身を預けたくなるような、どこからか聴こえてくる音楽に耳を澄ますような、自分自身の中へと潜航していく愉しみなのだ。