2009年6月24日水曜日

オルテンシア・アジェンデ夫人死去

 チレ人民連合(UP)社会主義政権の大統領・故サルバドール・アジェンデの夫人オルテンシア・ブッシ・デ・アジェンデが6月18日首都サンティアゴの自宅で、老衰により94歳で死去した。旧国会議事堂で20日挙行された葬儀でミチェル・バチェレー大統領は、「独裁への抵抗の象徴に、抑圧に苦しんだ者たちの力強い声に、別れを告げに来ました。政府を代表して、サルバドール・アジェンデ大統領とともにあり、独自の功績もあった偉大な女性に誠を捧げ、お別れを告げます」と涙声で弔辞を読んだ。

 葬儀には大統領のほか、1990年3月の民政移管後、政権を担ったパトゥリシオ・エイルウィン、エドゥアルド・フレイ、リカルド・ラゴスの3人の大統領経験者、ペルー首相ジェウデ・シモンら数千人が参列した。メヒコ、ブラジル両政府、故フランソワ・ミッテラン仏大統領夫人ダニエルなどからの多数の弔電が披露された。オルテンシアが長らく亡命生活を送ったメヒコの政府弔電には、「故人はメヒコを第2の祖国と呼び、帰国後もしばしばメヒコを訪れた」と記されていた。

 棺はサンティアゴ大聖堂で冥福の祈りを受けた後、1973年9月11日の軍事クーデターで死んだアジェンデ大統領の遺体が搬出されたモネーダ宮(大統領政庁)の門の前など故人ゆかりの地を回ってから、死の外れの国立墓地に運ばれ、アジェンデ廟に埋葬された。沿道では、涙の市民が葬列を見送った。

 青年時代にアジェンデ大統領の護衛を務め、クーデターを生き延びたチレ人で、米国に住み劇作家・作家として活躍しているアリエル・ドルフマンは、以下のような文章を故人に捧げた。

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「テンチャを依然見つめつつ」
――オルテンシア・ブッシ・デ・アジェンデの死を悼んで――

                           アリエル・ドルフマン
  
 私が初めて真のテンチャ(オルテンシア=紫陽花=の愛称)を見、理解したのは、1974年3月のローマでのある日のことだった。もちろん私は以前、さまざまな機会に彼女を見ていた。私は彼女の二人の娘イサベルとタティーの友だちだったため、彼女の自宅で見ていた。大統領政庁でも彼女を見た。私はアジェンデ大統領の下で働いていて、大統領夫人としての任務をこなしていた彼女を見ていたのだ。チレ革命の行進、集会、闘争のさなかにも見た。だが、それらは別のテンチャだった。民主主義のチレ、平和なチレ、彼女の夫が生きていてチレが正義と自由に向かって前進している時代のことだった。

 私がローマでテンチャに会ったのは、1973年9月の軍事クーデターの半年後に組織されたラッセル法廷でのことだったが、彼女はまったくの別人になっていた。彼女は痛みと喪失によっても挫けなかったばかりか、巨きくなっていた。いつそのように変身したのかはわからない。たぶん、死に顔を見ることを許されないまま亡夫の亡骸を埋葬しなければならなかった時だろう。たぶん、メヒコ大統領が派遣した特別機に乗り、その後長らく帰国することのなかった亡命地へ旅立ち、敗者として帰国することは絶対にないと誓った時だろう。たぶん、アジェンデが不在になったことによって、ピノチェーによって恥辱にまみれさせられたチレの希望を体現する役割を、ちりぢりになった抵抗運動を団結させる役割を、蹂躙されたチレ人民を世界で代表する役割を認識した時だろう。

 彼女は60歳に近づいており、その後の人生を孫たちのために費やしたり、幾多の死、幾多の悲劇、幾多の精神錯乱を前に静かな生活をしたりするのが許されてしかるべきだったかもしれない。だが事態は深刻だった。祖国は孤児になって喪に服し、夜間誘拐されたかのように消え去りそうになっていた。そして彼女は、それを許さなかった。

 その日の午後ローマで、彼女はほとんど聞き取れないような声で話した。その話は単に率直であるだけでなく、実践主義と洞察力に富んでいた。とりわけ彼女が尊厳に充ち満ちていたのに気づかされた。そして彼女の声に、何百万人もが話し何百万人もが聴いていたと思わせる確かさがあったのが印象的だった。

 私は敢えて、彼女と友人だったと言おう。彼女にその後メヒコ市、パリ、アムステルダム、ロンドンで再会し、協同したが、彼女が後退し迷い忘却するのを見たことがない。正義を、最も必要としていた人々のために果たす役割をやめるのを見たことがない。そしてついに1988年のあの日が来た。ピノチェーの政権長期化にノーを唱える国民投票の運動に参加するため彼女は帰国し、大歓迎されたのだ。独裁は終焉に向かい、テンチャは祖国に居て、歩みの遅い民主主義復活の過程に携わった。そして、サルバドール・アジェンデの遺体を、甦った人民とともに正式に埋葬する日が来た。思慮分別の声が、忍耐の声が、もう一つの異なる世界が可能だという絶対的な信念の声が必要な時、彼女は常にそこに居た。私たちが長く困難で複雑な過渡期にあった歳月、テンチャはいつもそこに居た。

 数々の思い出、笑顔、偉業、涙、旅行の何が私に残るのだろう。メヒコ市から友人が電話でテンチャが死んだと伝えてきた今、何が私に残るのだろう。それは次のようなものだ。テンチャが私と会うたびに真っ先にしたのは、演説の準備をしなければならない時でも、非常事態に否応なしに直面しなければならない時でも、どんな場合であっても、私の妻アンヘリカと息子たちのことを訊ねることだった。真にそうするのが重要だったからだけでない。会うたびに成長していた息子ロドリゴを見ていたからだけでない。妻とともに失踪者のための断食ストライキをしていたからだけでない。亡命地オランダである寒い日の夜に生まれた次男ホアキンを生後二ヶ月で見たからだけでない。背後には、もっと深い理由があったと思う。

 夫、祖国、老年期の平和さえも失っていた彼女は、密かにメッセージを送っていたのだと思う。すべての亡命者のため、チレで苦しみ戦っていた人々のためにささやいていたように、私にも語っていたのは、私たち全員が一つの大きな家族であるということだった。あの驚嘆すべき女性テンチャが語っていたのを忘れない。隔絶と喪失だらけのこの悲しみに満ちた世界で、決して死ぬことのないチレの母、姉妹、祖母であるテンチャが、私たちとともにいつもいることを思い続けたい。(伊高浩昭仮訳)