特別寄稿:伊高浩昭(ジャーナリスト)
米国人ノーベル文学賞作家アーネスト・ヘミングウェイ(1899―1961)は1932年にハバナのホテル「アンボスムンドス(新旧両世界)」を拠点とし、40年からハバナ郊外の邸宅フィンカ・ビヒアに住み始めた。59年元日に革命が勝利した後、フィデル・カストロ革命軍最高司令官(当時)とも会っているが、60年7月突然、米国に去ってしまった。そして1年後の61年7月、猟銃で自殺した。
第1次世界大戦、スペイン内戦、第2次世界大戦を取材したヘミングウェイならば、閃きの源になりうる革命過程のキューバと、もっと長く付き合うのが自然ではないかと誰もが思うだろう。なぜ革命後1年半でキューバを離れてしまったのだろうか。これは多くの人々にとって深い謎だ。
キューバ共産党青年部の機関紙「フベントゥー・レベルデ(反逆青年)」が8月2日報じたところによると、ヘミングウェイ博物館(旧邸宅)のアダローサ・アルフォンソ=ロサレス館長は、「当時、キューバに駐在していたフィリップ・ボンサル米大使から、キューバに留まれば裏切り者と見なすと通告され、やむなく出国した」と語っている。館長はさらに、「このような圧力が作家の自殺につながった」と見ているという。
当時のアイゼンハワー米政権は61年1月、キューバとの国交を断絶した。同月就任したケネディ米大統領は、前政権の決定を引き継いで、その年4月、キューバ島コチーノス湾ヒロン浜にキューバ人傭兵部隊を送り込んで侵攻作戦を撃つが、カストロ軍に撃破されてしまう。その後、62年10月、あのキューバ核ミサイル危機が勃発し、翌年ケネディは暗殺されてしまう。
キューバと米国の関係が険悪な方向に急傾斜しつつあった時代に、ヘミングウェイは意に反する形で出国を余儀なくされたのか。館長の証言は検証が必要だが、いずれ新しい資料が出てきて、真相が明らかになるだろう。