2008年10月29日水曜日

アルゼンチンでよみがえるシケイロスの壁画(その1)



Siqueiros "Ejercicio Plástico" 作品の写真は下記のサイトより引用



投稿  伊高浩昭

 2008年10月下旬、ブエノスアイレスから懐かしいニュースが届いた。メキシコ社会派壁画運動の巨匠の一人ダビー・A・シケイロス(1896―1974)が1933年に同市に残した壁画「造形の実習」(エヘルシシオ・プラスティコ)が、修復を施したうえで大統領政庁(カサ・ロサーダ)裏にあるコロン広場の地下に取りつけられることになったというニュースである。なぜ懐かしいかと言えば、私(筆者)が1967年から74年までメキシコでシケイロスを何度も取材し、薫陶を受けたからだ。この壁画はシケイロスの2番目の夫人でウルグアイ人のブランカルス・ブルム(1905―85)の美を讃えるために制作されたものとされ、彼女を連想させる豊満な裸女たちが泳いでいるような絵柄だ。制作された邸宅の広間の壁と天井を覆っていた。シケイロス特有の政治性が極めて乏しい、希有な作品とされている。
 私はインタビュー取材を基にシケイロスの短い伝記【拙著『メヒコの芸術家たち』(1997年、現代企画室)参照】を書いたが、そのなかにはブランカルスの他、最初の夫人グラシエーラ・アマドール、3番目の夫人アンヘリカ・アレナルが登場する。私が知己を得たのはアンヘリカだけだが、今回のニュースで画伯ゆかりの3人の女性(いすれも故人)の名前が出てきたのにも懐かしさをおぼえるのだ。シケイロスの葬儀の後、アンへリカは、「夫は死の8カ月前、私に突然、〈私の人生で唯一人の女性はきみだ。きみは私の創造の閃きの源泉だ〉と言いました。あんなにうれしかったことはありません」と明かした。二人の間に生まれた娘アドゥリアーナの話では、両親が民法上の結婚登録をしたのは1971年のことで、画伯にとっては初めての正式な結婚だった。いずれにせよアンへリカは、前妻二人のことが気になっていたのだろう。

 シケイロスはメキシコ革命(1910―17)を憲政軍(革命側)の中尉として戦い、1919年に武官として第1次世界大戦直後の欧州に駐在することになるが、同年結婚したグラシエーラを伴っていた。彼女はメキシコの民俗芸能の研究者で、人形劇に打ち込んでいた。シケイロスは22年に帰国し、政府の要請で壁画制作を開始するが、翌23年、メキシコ共産党(PCM)に入党する。29年、共産党系の国際労連会議に出席するためモンテビデオに行き、そこで共産党シンパのブランカルスと出会い、恋に落ちる。ジャーナリストにして詩人で芸術家という多彩なブランカルスは美貌で恋多き女だった。連れ子がいたが、二人は同年、再婚し合い、連れ子とともにメキシコ市で暮らす。壁画家ディエゴ・リベラと画家フリーダ・カーロ夫妻、写真家ティナ・モドッティ、名画「メキシコ万歳」を制作するため滞在中だったロシア人映画監督セルゲイ・エイゼンステインらとの芸術家同士の華々しい議論と宴の毎日が続く。
 シケイロスは1933年、彼女とともにモンテビデオに行き、大河ラ・プラタ対岸のブエノスアイレスに落ち着く。ウルグアイ人で新聞王のナタリオ・ボターナはシケイロス夫妻を歓迎し、ブエノスアイレス郊外に持つ邸宅の地下の広間を飾る壁画の制作を依頼する。こうして「造形の実習」が生まれたのだ。ところが彼女はボターナと恋人同士になってしまい、シケイロスはニューヨークに去っていく。ブランカルスはさらに恋を重ね、晩年には、軍事クーデターで政権に就いたアウグスト・ピノチェー将軍を支持し、軍政に宝石を提供して、後に将軍から勲章を授与された。恋多き女は変節したのだった。 シケイロスはニューヨークで「シケイロス実験工房」を開いた。壁画制作用の珪素や棉火薬などを用いた材料を開発した。早期乾燥が可能になり、色彩の流麗さが増した。ルネサンス期からのフレスコ画法による壁画制作は、シケイロスにとって過去に沈んだ。実験工房にはジャクソン・ポロックが通った。後に「アクションペインティング(無形象画)」を編み出した画家である。

(続く)