特別寄稿:伊高浩昭(ジャーナリスト)
岡村春彦の『自由人佐野碩の生涯』(岩波書店、2009年6月26日発行、3800円)がついに出た。待望の本である。佐野碩(1905―66)は「セキ・サノ」として知られ、メキシコに近代演劇を植えつけた演出家で、「メキシコ演劇の父」と呼ばれるグラン・マエストロ(巨匠)だ。ラ米の演劇界でも広く知られている。ラ米に文化面で最も貢献した日本人が碩であり、このような日本人は再び現れないだろう。碩は1939年、革命大統領ラサロ・カルデナス(1895―1970、任期1934―40)時代のメキシコに政治亡命したが、経済目的や生活目的の移住者でない点でもラ米では前例のない日本人定住者だった。
私は1967年3月にメキシコ市を拠点にラ米取材を開始したが、碩は半年前の66年9月心臓発作で死去していた。私のメキシコ時代には残念な取材上の思い出がいろいろあるが、碩に会えなかったのはとりわけ残念極まりないことだ。会っていれば当然、インタビューして長い記事を書いていただろう。
1973年のある日、メキシコ市の私の元に岡村春彦(1935年生まれ)が訪ねてきた。前年からその年にかけて同市内にある大学院大学「コレヒオ・デ・メヒコ」で客員教授を務めた鶴見俊輔の紹介だった。岡村は初対面で、碩について本を書く目的を話し、私に取材上の協力を求めた。私は快諾し、メキシコ市での協力者の一人になった。岡村は、かつてヴィエトゥナム戦争報道で鳴らした写真家岡村昭彦の実弟で、舞台俳優と演出家を兼ねていた。私は、学生時代に昭彦の写真報道に敬意を払っていたことから、春彦に親近感を抱いた。
私は、半年の時間差で碩に会えなかった悔しさを埋めるためにも、岡村の取材を応援しようと考えた。これはメキシコの演劇、演劇史、演劇人、演劇政策の取材であり、岡村の取材の一部に同伴するのは私にとっても有意義なことだった。そのころ私は、壁画家ダビー・アルファロ=シケイロス(1896―1974)を取材して何度も記事を書いていたが、碩とシケイロスはある局面で絡み合う関係にあった。
碩は、戦前の軍国主義日本で演出家となって頭角を現したが、万能の特高警察による激しい弾圧が渦巻く暗黒日本を逃れるように、演劇理論を学び実習するため欧州に去る。東京で活躍していた1929年には、「インターナショナル」の歌詞を佐々木孝丸とともに邦訳している。「起て飢えたる者よ、今ぞ日は近し」で始まるあの歌詞だ。31年に横浜港を出て、ロサンジェルス、ニューヨークを経て、ベルリンに渡り、モスクワに行く。翌32年から37年までモスクワに住み、演出家メイエルホリドの助手として働きながら、もう一人の演出家スタニスラフスキーの理論も直接体得する。碩は、モスクワでも一目置かれる演出家になった。
スターリンの粛正の荒波が押し寄せる直前にパリに出たが、翌38年、折から激しい内戦が続いていたスペインのバルセローナで内戦の記録映画の撮影に携わる。この年、再びニューヨークに渡り、半年滞在して、39年メキシコに行く。軍国日本から〈国賊〉扱いされていた碩は、ソ連出国からメキシコ入国時まで、日本の出先機関から査証取得や入国で邪魔されっぱなしだった。死の脅迫を受けたこともある。
メキシコ市に落ち着いた碩は、死ぬまで27年滞在したが、その間、出国したのは、演劇指導に招かれたコロンビア、革命キューバ、グアテマラの3国だけだった。メキシコ生活は、26年間の日本時代をわずかながら上回る長さだ。日本には晩年、演劇公演を目的に訪問する意志を示したが、実現しなかった。
英、仏、独、露、西の5カ国語に堪能だった碩の周辺には、常に著名な芸術家、知識人の輪ができた。アグネス・スメドレー(米ジャーナリスト)、アンドレ・マルロー(仏作家)、エイゼンシュテイン(「メキシコ万歳!」のソ連映画監督)、石垣榮太郎・綾子、ディエゴ・リベラ(墨壁画家)、シケイロスら、交友録はまばゆいばかりだ。戦前日本の演劇人、小林多喜二を含む左翼作家らはほとんどすべて友人であり、当時の日本共産党幹部たちともモスクワで会っている。
岡村は、碩が同棲していた米国人舞踊家ウォルディーンにまず会いたいと望んだ。碩のメキシコ時代で最も重要な女性である。メキシコ市内の住宅街に、彼女の広い稽古場があった。私は通訳を務めた。碩が晩年、活動したコヨアカン劇場の跡や、幾つかの劇場を訪ねた。碩を支援した芸術庁や電気労連も訪ねた。演劇人たちは口をそろえて碩の偉大さを讃えた。彫刻家イサム・ノグチの描いた壁画のある下町の生鮮食料品市場や、リベラやシケイロスの壁画のあるあちこちの古い建物を回った。中心街にある国立劇場ロビーは壁画の宝庫だが、この劇場を本拠としている国立民俗舞踊団の当時の団長アマリア・エルナンデスも、碩を師と仰ぐ演出家だった。国立劇場の近くには、碩が舞台としたことのあるイリス劇場もあった。
リベラとフリーダ・カロが暮らしたコヨアカン地区の「青い家」や、夫妻が亡命者トロツキーに貸していた「トロツキーの館」にも案内した。トロツキーは1940年8月、スターリンの回し者にピッケルで脳天を割られて暗殺されたが、これに先立つ5月、シケイロス率いるメキシコ共産党の突撃隊が館を襲撃した。この時トロツキーは〈奇跡的に〉一発の銃弾も当たらず無事だったが、シケイロスは後年、「モスクワからの暗殺命令があったが、私は暗殺するつもりはまったくなかった」と語った。その気があったならば、トロツキーは殺されていたはずだ。だが3カ月後、暗殺されてしまい、一時、「モスクワから来た男・碩はスターリンの回し者ではないか」と言いふらされ、碩は警戒していたという。碩が助手を務めたメイエルホリドは40年2月粛正(銃殺)されており、「クレムリンの長い手」が及んでもおかしくないと碩が怯えたとしても不思議はない。
碩が短期間バルセローナで内戦の状況を映画にしていたころ、シケイロスは人民戦線義勇兵部隊の中佐として前線で戦っていた。1967年に私がシケイロスにインタビューしたとき、「私の人生で最大の出来事はスペイン内戦体験だった」と画伯は語ったのである[『メヒコの芸術家たち』(1997年、現代企画室)参照]。カルデナスは、スペインから逃れてきた亡命者を数多く受け入れた。余談だが、フリーダが、女癖の悪かった夫ディエゴへの当てつけで、トロツキーやノグチと関係を持ったのは周知の事実だ。
岡村は、その後も2回、メキシコを取材し、90年代後半には原稿をほぼまとめていた。私は点検するよう依頼され、碩のメキシコ時代の記述について読ませてもらった。ところが2002年に衝撃的な知らせが届いた。岡村が脳出血で倒れたというのだ。原稿は、しばし眠るのを余儀なくされた。だが、家族ぐるみでリハビリテーションに取り組み、岡村は言語による会話をかなりな程度奪回した。そして演劇評論家の友人の力添えを得て、出版にこぎ着けたのだ。最初の取材から36年、周年が結実した。まさに労作中の労作だ。送られてきた本を手にして感慨無量だった。「碩に会えなかった無念」も大方吹き飛んだ。この本は、碩研究に新しい地平線を開いた。私は電話で岡村を祝福した。