アジェンデ政権打倒をブラジルと策謀 ~暗黒の裏面史を暴く米国務省公開文書~
特別寄稿:伊高浩昭(ジャーナリスト)
一九七〇年代初頭、米伯両国がラ米反共戦略を共同で推進しようとしていた事実が最近あらためて明らかになった。米国務省が二〇〇八年九月八日に黒墨を入れて修正したうえで機密指定を解除し公開した文書が、二〇〇九年八月半ば米国の民間研究団体「ナショナル・セキュリティー・アーカイヴ(NSA=国家安全保障文書)」によって配布され、脚光を浴びている。当時、メキシコ市を拠点にラ米情勢を取材していた私にとっても、極めて興味深い内容だ。
この文書は、ホワイトハウス(米大統領政庁)が一九七一年一二月九日付で記した米伯首脳会談に関するメモランダムで、当時のリチャード・ニクソン大統領(一九一三―九四)の行政記録文書として、同大統領の国家安全保障担当補佐官(その後七三―七七年国務長官)ヘンリー・キッシンジャーがまとめた形になっている。会談したのはニクソンと、訪米していた当時のブラジル軍政大統領エミリオ・ガラスタズー=メディシ将軍(一九〇五―八五)で、在仏・米大使館付武官で次期CIA副長官就任が内定していたヴァーノン・ウォルターズ少将が同席した。
最も重要な会談内容は、チリのアジェンデ人民連合(UP)社会主義政権打倒のクーデターに向けて協力することで合意した部分だが、他の部分も重要であり、公開文書に盛り込まれているテーマ順に紹介する。私が付記した部分は[ ]で囲んだ。
▽米州開銀問題
会談初めの挨拶が終わると、メディシは「米州開発銀行(BID)のオルティス=メナ総裁と会談したばかりだが、総裁から銀行支援の要請をニクソン大統領に伝えてほしいと依頼された」と切り出し、ニクソンは「米議会が善処するはずだ」と応じている。
[この総裁はメキシコ経済相経験者で、経済相だったころ、一九七〇年のメキシコ大統領選挙に当時の政権党PRI(制度的革命党)候補として出馬したがっていた。だが当時のグスタボ・ディアス=オルダース大統領はルイス・エチェベリーア内相を後継候補に指名し、内相が選挙を経て大統領に収まる。私はそのころ、PRI党内の勢力争いを取材しており、内相と経済相の権力闘争を目の当たりにしていた。だから、メディシが総裁の名前を出したのを知って、妙に懐かしかった。]
▽米玖関係
次にニクソンは、キューバ問題を取り上げ、「我々の対キューバ政策が変化しつつあるとの報道や噂があるが、全くの間違いだ。カストロ体制と革命輸出の策謀が続くかぎり、政策は変わらない」と強調した。メディシは「その言葉を聞いて大変嬉しい。ブラジルの立場とまさに同じだ」と応じた。
▽ペルー軍政
メディシは続いて、「ペルーは、キューバのOEA(米州諸国機構)復帰を目指し、OEA内に検討委員会を設置しようと工作している。我が方の外相(ギブソン・バルボーザ)は、伯米両国の委員会参加問題がいずれ浮上し、参加して委員会内部からキューバ復帰に反対するのが得策か、それとも委員会参加をはねつけるべきかの問題になると指摘している。米国が委員会に入れば、キューバ復帰を認めていると受けとめられてしまうかもしれない。ブラジルの参加についてどう思うか」と、ペルー左翼軍政のフアン・ベラスコ=アルバラード大統領の動きに関連して問題提起する。ニクソンは「興味深い問題であり、十分検討してから回答を伝える」と応じている。
[キューバのOEA復帰問題は二〇〇九年六月初め、ホンジュラスのサンペドロスーラ市で開かれた第三九回OEA外相会議で、キューバ加盟資格停止決議(一九六二年)が廃棄されて一応の決着をみた。だが、キューバには復帰の意思はない。OEAの枠外に居続け、米国と退治し続ける方が得策だからだ。]
▽直接回路
ニクソンはそこで「我々は馬が合い、視点も一致している。密接な関係を維持するため、通常の外交チャネルではない直接の回路を設置したい」と切り出し、その窓口としてキッシンジャーを指名した。メディシは、外相にして私設顧問である側近中の側近バルボーザを指名した。さらに、「ブラジル軍政・軍部と密接な協力関係にあるブラジリア駐在の米軍武官モウラ大佐が近く転勤すると聞いているが極めて残念だ」と表明する。ニクソンは、「大佐の功績は把握している。大佐を准将に昇格させ、ブラジルに武官として留まらせる」と答えて、メディシを喜ばせる。
▽亡命キューバ人
メディシは、米州に数多くいる反革命亡命キューバ人の存在に触れて、「彼らは、カストロ体制を打倒する能力があると主張している。我々は彼らを支援すべきか」と問いかける。ニクソンは熟考した後、「我々が支援できない計画に彼らを巻き込むのでないかぎり、また、我々の関与が極秘裏に保たれるかぎり、支援すべきだと思う」と答えた。メディシは同意し、「ブラジルの協力が必要だと思ったら、直接回路で伝えてほしい」と言った。
[ここで興味深いのは、一九六一年四月のヒロン浜侵攻作戦の惨敗である。アイゼンハワー大統領はカストロ体制打倒のため、この作戦を決めたが、ニクソンは副大統領として深く関与していた。CIAと米軍顧問団が亡命キューバ人を中米で訓練し、ヒロン浜に上陸させたが、作戦決行時の大統領はケネディだった。ケネディは作戦失敗が濃厚になった時点で、米軍介入の要請を拒否した。米政府は、フロリダに〈キューバ亡命政権〉をあらかじめ擁立しており、作戦が勝利しそうになったら直ちに〈亡命政権〉を承認し、その要請を受けて介入する筋書きを用意していた。]
[だが、作戦は惨敗し、米軍介入の機会は訪れなかったのだ。ケネディは一九六三年に暗殺されたが、ヒロン浜作戦時の米軍介入を許可しなかったのを恨んでいた米国内の反動勢力が暗殺に関与したとの見方が消えていない。ニクソンは明らかに、ヒロン浜敗北の苦い経験から、「我々が支援できない計画に巻き込まない」という教訓を得ていたのだ。]
▽ボリビア
この後、メディシは、「ブラジルはできる範囲で近隣諸国、とりわけボリビアを援助している。最近、ボリビアの閣僚が来て、代金の三年間支払い猶予、その後一〇年払いで、砂糖三万トンを売ってほしいと我々に求めた。支払い方法が通常の取引とかけ離れていると答えると、彼は砂糖が欠乏すれば政府は倒れ、左翼が政権を握る。これは政治問題なのだと迫った。そこで彼の言う条件で砂糖を引き渡すことにした」と、バンセル・ボリビア軍政との取引を披露した。続けて、「すると、今度はブラジル製ジェット戦闘機一〇機を同様の条件で売ってほしいと持ちかけてきた。私は、経済困難にある国が戦闘機を解体とは馬鹿げていると言って、断った。イスパノアメリカ(スペイン語系ラ米)人の考え方を理解するのは難しいと思ったが、ニクソン大統領にとっては一層難しいだろうと思った」と述べた。メディシは、「伯米両国は西語系ラ米との取引に難しさを抱えているが、我々がポルトガル語を話し、米国が英語を話すからだろう」とつけ加えた。
[北の米国と南のブラジルが協力して、間に挟んだ西語系ラ米ににらみを利かせる極秘会談をメディシとニクソンはしていたわけだ。この会談に先立つ一九七一年八月、ボリビアで流血の軍事クーデターが起き、左翼人民主義路線を走ろうとしていたフアンホセ・トーレス軍人大統領の政権は倒れた。ボリビア軍部右翼の大佐だったウーゴ・バンセルを背後で操っていたのが米伯両国だった。メディシとニクソンは、ボリビアでの〈成功例〉に立って会談したのだ。私は一九七三年に、ブエノスアイレスで亡命生活を送っていたトーレスにインタビューしたが、トーレスは七六年三月、同市郊外で射殺体で発見される。米伯が南米軍政と組織した左翼暗殺のための「コンドル作戦」の犠牲者になったのだ。]
▽ストロエスネル
メディシは、西語系ラ米人がやっかいな例として、当時のパラグアイ大統領アルフレド・ストロエスネル(一九一二―二〇〇六)について語った。「彼は頑迷な反ボリビア主義者で、ボリビアには何も与えまいと決め込んでいた。ブラジルはパラグアイと共同でパラナー川にイタイプーダムを建設している。発電される電力(1200万kw)は折半するが、パラグアイにはそれだけの需要がないため、ブラジルが余剰分を買い上げることになる。そこで、パラグアイはその買い上げによる収入の一部を用いてボリビアに何らかの援助はできないかと、ストロエスネルに持ちかけた。ボリビアは支援が得られなければ共産圏に接近し、武器を含む巨額の援助を受けるようになるだろう。そうなれば、彼らはチャコ戦争(一九三二―三五。パラグアイが勝利)の結果をひっくり返すことさえ試みかねないと言ってやった。するとストロエスネルは最終的に話を理解した」。「ニクソンはこの話を聴いて喜んだ」と、公開文書は記している。
[ストロエスネルは、チャコ戦争で戦功のあった軍人で、それを足場にのし上がった。一九五四年から長期独裁政権を率いていたが、一九八九年クーデターで追放され、ブラジリアで亡命生活を送り、死んでいった。私は、ストロエスネルの政権末期、彼のすぐ身近に数十分間いたことがあるが、質問は一切許されなかった。]
▽ラヌーセ将軍
メディシが、「アルゼンチンとの間はいちばん難しいかもしれない。ラヌーセ(当時の亜国軍政大統領)が来訪したとき、大統領同士でなく将軍同士としてざっくばらんに話し合おうと努めた」と言うと、ニクソンは、「私はアルゼンチン情勢を懸念している。ラヌーセ訪伯後のあの国の話を聞かせてほしい」と求めた。メディシは同意したが、公開文書には、それ以上の記述はない。
[ラヌーセは、軍政ではアルゼンチン政治の混迷状態から脱することはできないと悟り、スペインに亡命していたペロン将軍に帰国を促した人物だ。私は後年、引退後のラヌーセにインタビューしたが、「民主化を実現した将軍」であることを誇りにしていた。このようなラヌーセの政治的作風が、極右反共軍人メディシには不可解だったのだろう。]
★チリ政権転覆謀議
チリ情勢を切り出したのはメディシだ。「アジェンデは、ブラジルのゴウラール政権が打倒されたのと同じ理由で倒されるべきだ」と提起した。ブラジル軍部は一九六四年にクーデターでゴウラール政権を倒し、カステロ=ブランコ、コスタ=イ=シルヴァの二代軍政大統領の後を受けたのがメディシなのだ。私がブラジル現地取材を始めたころは、まさにメディシ政権時代で、都市ゲリラ闘争が激化し、当局は徹底的に弾圧していた。メディシこそ、五代二一年続いた軍政大統領のなかで、最も厳しい弾圧を加えた指導者だった。
ニクソンが、「チリ軍部には、アジェンデを倒す能力があるか」と訊くと、メディシは、「あると思う。ブラジル軍部はチリ軍部と多くの士官を交流させてきており、ブラジルは、その目的(アジェンデ政権転覆)のために活動している」と明言した。ニクソンは、「その分野で伯米両国が緊密に協同するのは極めて重要なことだ。米国は指揮は執れないが、我々に何か支援できることがあれば、指摘してほしい。資金や極秘の支援などが必要ならば、提供は可能だと思う。この件は最大限、秘密が維持されなければならないが、新たにカストロ型やアジェンデ型の人物が登場するのを防がなければならず、そのような傾向があれば覆さなければならない」と応じる。メディシは、「伯米双方の立場と見方が極めて接近しているのが嬉しい」と言った。
[ニクソンはチリクーデター後に行なわれたインタビューで、「ある時、イタリア人実業家が私の所にやってきて、〈カリブ海にキューバがある。チリにアジェンデ政権が登場すれば、南米は共産主義のサンドイッチになってしまう〉と言っていた」という逸話を語っている。自らの関与を一切表に出さず、淡々と語っていた。]
▽ペルーでの策謀
ニクソンは、「ウォルターズ将軍は来年(一九七二年)三月か二月末にパリから戻り、CIA副長官に就任する。これをお伝えしたい」と言う。メディシは、「その人事は、ニクソン大統領にとって特にラ米の問題で助けになると思う」と応じた。
ニクソンは、「ペルーのベラスコ=アルバラード政権については、我々の対応は幾分異なるようだが」と、再びペルー問題に話を戻す。メディシはOEAへのキューバ復帰工作の話を繰り返す。ウォルターズ将軍が口を挟み、「ベラスコは国内で問題を抱えることになるはずだ。私がパリに赴任したころ、ベラスコは武官としてパリに駐在しており、愛人との間に子供が一人いた。彼女は元ミス・ペルーで、左翼思想の持ち主であり、そのような政治活動をしていた。この事実が明らかになれば、ベラスコは窮地に陥るだろう。元首のそのような行為は、ペルー軍部高官たちから大目には見られないはずだ」と指摘した。
[ベラスコは一九七五年、軍部内クーデターでモラレス=ベルムデス将軍に取って代わられたが、愛人との隠し子問題がベラスコ揺さぶりでどこまで効果を発揮したのかはわからない。ベラスコは「軍事革命政権」を標榜し、国内改革や対米自立外交を推進したが、モラレスになると穏健化し、やがて民政移管となる。]
▽アマゾニア
ニクソンは話題を変えて、ブラジルが陸軍工兵部隊を使って国内遠隔地に自動車道網を建設している件について質問する。メディシは、「アマゾニアで建設中だ。工兵部隊の兵士たちには任務を解除し、現地に土地を与えて定住させる政策をとっている。農民に土地を与える農地改革も推進している」と説明する。ニクソンは、「それらの自動車道建設は汎米自動車道とどう絡み合うのか」と問う。メディシは、「ブラジルと、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアとの接続はうまくいっている。ボリビアを除く三カ国とは舗装道路で結ばれている。現在、ブラジル最西端からペルーのプカルパに抜ける道路を建設中で、これによりブラジルとペルー、エクアドール、コロンビアはつながることになる。ベネズエラ、ガイアナとは隔絶したままだ」と応える。
▽米伯関係
ニクソンが、この首脳会談の共同声明の案分について意見を訊くと、メディシは満足していると答え、「声明以上に大切なのは、ニクソン大統領と緊密な関係を結び、多くの問題で見方が一致したことだ」と述べた。ニクソンは、「同意見だ。緊密な関係を維持したい。米国にはできないが、南米の国ブラジルにできることがたくさんあるから」とつけ加えた。メディシは、歓待に感謝しニクソンとの友情確立を喜び、その後の協力関係推進を口にした。二人は別れの挨拶を交わし、ニクソンはメディシを自動車まで送っていった。
[▽引き継がれた陰謀]
[ニクソンは大統領二期目の一九七四年八月、ウォーターゲイト事件で引責辞任し、副代統領ジェラルド・フォードが大統領に昇格した。メディシは同年、軍政四代目のエルネスト・ガイゼル将軍に政権を渡した。ニクソンとメディシが手がけたラ米での陰謀は、フォードとガイゼルに引き継がれた。私は田中角栄首相の訪伯時に、ブラジリアでのガイゼル記者会見に臨んだが、記者対応がまともにできない、頭の回らない軍人という印象を受けた。ニクソンが死んだ一九九四年四月、私はたまたま米カリフォルニア州を自動車で取材中だったが、至る処で半旗の星条旗を見た。何か、因縁めいたものを感じた。]
(公開文書関連部分は以上で終わり)
[▽その他の情報と資料]
☆NSAのチリおよびブラジル担当幹部ピーター・コーンブルーは、上記の米側文書公開と関連させて、「ブラジルが機密文書を公開する番であり、それなしには真相は解明できない。ルーラ大統領に要請している」と述べた。
☆CIA文書によると、メディシは上記の会談で、「伯米が協同してラ米でのマルキスト・左翼主義の台頭を抑え込もう」と提案し、ニクソンは、「いつでもどこでもブラジルを支援する」と答えた。これについて、ブラジル陸軍高官ヴィセンテ・コウチーニョ将軍のように、「米国は明らかにブラジルに汚い仕事をさせたがっている」と警戒する声も出た。
☆一九七二年CIA諜報予測:ブラジルは、ラ米に米国が残した空白部分を埋める役割を拡大しようとしている。
☆二〇〇二年NSC指摘の解除済み米伯会談関連機密文書によると、一九七一年一二月二〇日ニクソンは当時の英首相エドゥワード・ヒースと会談した。南米におけるブラジルの役割について話し合い、ニクソンは「我々の立場はブラジルに支持されている。ブラジルの支援は、将来にわたって鍵となる。ブラジルはウルグアイ大統領選挙の不正操作を支援した。すでに状況は動いている」と述べた。
[この「ウルグアイでの不正操作」は、一九七一年の拡大戦線候補リベル・セレーニ将軍(一九一六―二〇〇四)の勝利を阻んだことを意味する。〈当選した〉ボルダベリは一九七三年六月、軍部と組んでお手盛りクーデターを打ち、弾圧体制を敷き、セレーニも長期間投獄された。これが三か月後のチリ軍事クーデターへと続いていく。拡大戦線を中核とする左翼・民主連合は二〇〇四年の大統領選挙でタバレー・バスケス現大統領を当選させたが、その三か月前にセレーニは死去した。私は一九八〇年代末にモンテビデオでセレーニにインタビューしたことがあるが、獄中生活の話が記憶に残っている。]